2022年クリスマス(2)
しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。あなたが国民を増し、その喜びを大きくされたので、彼らは刈入れ時に喜ぶように、獲物を分かつ時に楽しむように、あなたの前に喜んだ。これはあなたが彼らの負っているくびきと、その肩のつえと、しえたげる者のむちとを、ミデアンの日になされたように折られたからだ。すべて戦場で、歩兵のはいたくつと、血にまみれた衣とは、火の燃えくさとなって焼かれる。
ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。
イザヤ9:1〜7
去年のクリスマスでは、この同じ聖句を通して、「世の光」であるキリストに「光を当てて」考えてみましたが、今年は、クリスマスまであと半月あるこの時期、「闇」の方に注目してみたいと思います。
古代から、「光」と「闇」とは、セットとして捉えられてきましたが、それと同時に、決定定期な違いがあることも理解されてきました。つまり、対照的でありながら、平等で相当な関係にはないということです。なぜなら、光は発生源を必要とするのです。火やエネルギーなどの特殊な光源が必要です。一方、闇を引き起こすには、どのようなエネルギー源が必要かといえば、何も必要ありません。光さえ存在しなければ、そこは闇なのです。つまり、闇とは、光の欠如に他ならないのです。
この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
ヨハネ1:4〜5
この点においても、光と闇とは全く対等ではないのです。光を抑え込めるような強烈な闇というようなものは存在しないのです。この聖句で、闇は光に「勝たなかった」とありますが、言語から直訳すると「理解できなかった」という表現になります。もう少し自然な日本語に直すと、闇は光に「かなわなかった」ということになります。
光と闇との関係で、私か若い頃、貴重な体験をさせていただきました。説教者になる献身をしたあと、神学の勉強の一環として、父の恩師であったバード牧師のもとで4ヶ月間学びました。その当時、バード先生は地元のアーカンソーを離れ、ハワイのカイルアバプテスト教会の牧師に就任していましたので、私はハワイに渡り、教会員の家に下宿して毎日教会に通って教えを請いました。
さて、ハワイで生活しているとひとつの点に気づきます。それは、街路灯の暗さです。オレンジっぽい光である上に、とにかく暗いのです。なぜ街路灯を暗くするかというと、ハワイのビッグアイランドにある、マウナケア天文台です。世界でも有数の天文台です。世界で大陸から最も離れた場所であるという地の利を活かし、きれいな空気という環境を利用した天文台なのです。南国の空気は湿気が多く、適さないのかと思われがちですが、マウナケアの山頂は標高4000メートル以上、ハワイが「常夏の島」というなら、マウナケアは年間を通して夏スキーができる場所なのです。
私はとにかくお金がない神学生だったので、近所の買い物等は教会員から借りた自転車、それより遠い移動は全てバスでした。教会からホノルルまでは車で30分、地元のカイルアタウンに出るのも車で10分近くかかるので、バスはありがたい存在でした。よりありがたかったのがオアフ島のバスのシステムで、当時は月5ドルの定期券で、島中のバスが乗り放題でした。
バスと天文台がどのような関係にあるかというと、バス停で降りてから教会まで歩いて帰る夜道の暗いこと。マウナケアの天文台に協力するため、ハワイ諸島がこぞって「消灯化」のような状況にあるのです。そのため、夜道はとても治安が悪いのです。当時の私は、多少空手を心得ていましたが、地元の巨漢のならず者にかなうはずもありません。しかし私は他に選択肢がないため、頻繁にそのような夜道を歩き、「主よ、お守りください」という気持ちで教会に帰っていました。教会の若い女性たちからは「よくやるよ」というような呆れの視線を送られたことをよく覚えています。
そのマウナケアの天文台に関してですが、面白い表現を聞きました。その天文台の望遠鏡は光を拾う能力が素晴らしく、「月に灯したロウソクの光をも拾うことができる」というのが当時のフレーズでした。私は、屁理屈屋なので、「空気がない月でロウソクは灯せないのでは?」と突っ込むところなのですが、それはそれ、言いたいことはわかります。宇宙という強烈な闇の中では、どんなにかすかな光であっても、とてつもない距離をも進むことができるのです。
というわけで、光と闇との関係が非常に不釣り合いなものであることがわかります。私たちの心の中にキリストの光が微塵でもあれば、強烈な闇であればあるほどその光は力強く輝きいでます。謙遜する必要はありません。光の性質とはそのようなものですから。
一方、私たちがキリストの光を灯そうとしなければ、どうなるでしょうか?何の発生源も要らない闇が支配します。なぜなら、私たちの肉の父は悪魔、闇が私たちのデフォルトの状態なのです。だから、私たちは漫然と光を放つことはできず、光を放つには光を放つ状態を備えなければならないのです。
あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
マタイ5:14〜16
目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。
マタイ6:22〜23
「目が悪い」というのは、視力の話ではなく、純粋な光を通すことを阻害するものの存在です。目が澄んでいれば、さまざまな神の真理やそれの即した世の中の事実を受け入れる能力があり、その分、人にもその光を分け与えることもできます。しかし、例えば霊的な白内障のような状況があれば、その人は主の光を伝すことがほぼできないのです。そして、光を通す力は私たちの自然体ではなく、主からいただくものです。私たちの自然体は闇だから。
イェスは2000年以上前に、世の光としてこの世に来られました。しかし、当然それで終わったのではなく、33の生涯を通して救いの働きをなされ、わたしたちにバトンを渡されたのです。
ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう。
使徒行伝1:8