2022年クリスマス(1)
兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。
Iテサロニケ4:13 〜18
今週から12月に入り、礼拝でもクリスマスに向けた内容を考えています。というわけで、今週の内容が上の聖句になりました。
えっ?あまりクリスマスっぽくない?
そんなことはありません。それどころか、キリストがこの世に来られた理由の核心をつくものです。ということで、今週のテーマは、「集う」に関してです。
欧米では、クリスマスに人々が共に集います。なんとなく楽しいからではなく、人生を通しての毎年の大切な節目としてです。日本では、若者がクリスマスを恋人と過ごすという風習もありますが、これは欧米の風習がひどく歪んだ形です。欧米では、家族や親族をほったらかして彼女とクリスマスを過ごしていたら、一族の裏切り者の烙印を押されるでしょう。むしろ、クリスマスを機に、彼女を親族に紹介するのが喜ばれるでしょう。
東京の福生市に、米軍の横田基地があります。そこには多くの軍人が配属されますが、私の知人や、アメリカの教会の教会員も何人も、ここ数十年の間に配属されてきました。その度に、私は彼らに会いに行ったり、当教会の礼拝に連れてきたり、観光に連れ出したりしました。その中で、私も良くわかっていなかったアメリカの風習の一つに気づきました。それは、クリスマスが近づくと、米軍の「おばちゃん」たち、大抵は上官の妻たちが、動き出すのです。
というのは、横田基地に配属されている人が単身の空軍兵なのです。家族のもとに帰って一緒にクリスマスを過ごすことができません。だから、一人で寂しくクリスマスを過ごす人もいるかもしれません。しかし、欧米では、クリスマスを一人で過ごすというのは、人生最大級の悲劇としてとらえられます。だからおばちゃんたちが動くのです。「クリスマス行くところがないんだったら、うちにきて一緒に食べなさい、ソファーで寝てもいいからゆっくりして行きなさい」というように。チャプレン(軍の礼拝堂付きの牧師)たちも、必死に動いて、取り残された若者がいないか、ひとりぼっちの軍人がいないか、探し出します。軍の人事関係者もそうします。全員が「共に集う」ことができるように。
ところが、全員がクリスマスをそうやって過ごすわけにはいきません。最低限度の人数が仕事をしなければなりません。欧米では、一般的にはイースターやクリスマスに人を働かせることは深刻な人権侵害にあたるとされるのですが、どうしても誰かがやらなければならない仕事もあります。そのような仕事は、3倍給を支払って有志にあたらせるのが米軍の鉄則です。
私の知人で横田基地に配属されていた男性がいました。彼は人間嫌いで、人が集まるところに行くのが大の苦手でした。そこで、彼は必ず、クリスマスやイースターなど、3倍給が取れる日程に積極的に仕事を入れて、荒稼ぎしていました。そのお金を例えば両親へのプレゼントとかに当てていたかと言えばそうではなく、高額なオーディオ製品を買ったりしていました。その彼にも悩みがあり、「なんで僕は結婚できないんだろう」ということでした。おいおい、ですね。
話はずいぶん聖書から離れましたが、人間は一般に、このように共に集うこと、共に居ること、に対する強い願望があります。それは、私たちが天の父の子であるからなのです。主は、ご自分と共にいるために人をエデンの園に住まわせ、毎日共に過ごしていました。人の身勝手な行動によってその関係が断たれるまでは。しかし、主はその関係の素晴らしさを忘れることができず、人類の歴史を通して対処を展開してきたのです。その中での非常に大きな出来事が、人類の罪のための身代わりとなるために、イェスがこの世に来られた瞬間でした。
さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、「いと高きところでは、神に栄光があるように、/地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。御使たちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼たちは「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか」と、互に語り合った。そして急いで行って、マリヤとヨセフ、また飼葉おけに寝かしてある幼な子を捜しあてた。彼らに会った上で、この子について自分たちに告げ知らされた事を、人々に伝えた。人々はみな、羊飼たちが話してくれたことを聞いて、不思議に思った。しかし、マリヤはこれらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた。羊飼たちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、またさんびしながら帰って行った。
ルカ2:8〜20
この夜は、天使たちが集いました!羊飼たちが集いました!博士たちも集いました?いや、博士たちが来るのは三年後のことです。
しかし、これらのことから、主がいかに私たちと共に過ごすことを強く願っておられるのかがよくわかります。エルヴィスの曲に、「ブルークリスマス」というのがあります。これは、大切な人とクリスマスを過ごすことができない切なさを歌った曲です。人間が寂しいのであれば、主も寂しいのです。今年のクリスマスは、主のそのような思いを受け止めて過ごしたいと思います。
そして、究極の集いです。
なお、あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につく(が)
マタイ8:11
その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、大声で叫んで言った、/「救は、御座にいますわれらの神と/小羊からきたる」。御使たちはみな、御座と長老たちと四つの生き物とのまわりに立っていたが、御座の前にひれ伏し、神を拝して言った、「アァメン、さんび、栄光、知恵、感謝、/ほまれ、力、勢いが、世々限りなく、/われらの神にあるように、アァメン」。長老たちのひとりが、わたしにむかって言った、「この白い衣を身にまとっている人々は、だれか。また、どこからきたのか」。わたしは彼に答えた、「わたしの主よ、それはあなたがご存じです」。すると、彼はわたしに言った、「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。
黙示録7:9〜17