み言葉を託された者:イザヤ(3)
大いに呼ばわって声を惜しむな。あなたの声をラッパのようにあげ、わが民にそのとがを告げ、ヤコブの家にその罪を告げ示せ。彼らは日々わたしを尋ね求め、義を行い、神のおきてを捨てない国民のように、わが道を知ることを喜ぶ。彼らは正しいさばきをわたしに求め、神に近づくことを喜ぶ。彼らは言う、『われわれが断食したのに、なぜ、ごらんにならないのか。われわれがおのれを苦しめたのに、なぜ、ごぞんじないのか』と。見よ、あなたがたの断食の日には、おのが楽しみを求め、その働き人をことごとくしえたげる。見よ、あなたがたの断食するのは、ただ争いと、いさかいのため、また悪のこぶしをもって人を打つためだ。きょう、あなたがたのなす断食は、その声を上に聞えさせるものではない。このようなものは、わたしの選ぶ断食であろうか。人がおのれを苦しめる日であろうか。そのこうべを葦のように伏せ、荒布と灰とをその下に敷くことであろうか。あなたは、これを断食ととなえ、主に受けいれられる日と、となえるであろうか。わたしが選ぶところの断食は、悪のなわをほどき、くびきのひもを解き、しえたげられる者を放ち去らせ、すべてのくびきを折るなどの事ではないか。また飢えた者に、あなたのパンを分け与え、さすらえる貧しい者を、あなたの家に入れ、裸の者を見て、これを着せ、自分の骨肉に身を隠さないなどの事ではないか。そうすれば、あなたの光が暁のようにあらわれ出て、あなたは、すみやかにいやされ、あなたの義はあなたの前に行き、主の栄光はあなたのしんがりとなる。
イザヤ書58:1〜8
先週の続きです。ユダヤの人々は、前向きに礼拝や儀式に取り組んでいるつもりでしたが、その礼拝や儀式が彼らの期待する結果をもたらしませんでした。そこで彼らは、例えば断食が役に立たない、と考え始めました。しかし、彼らが理解していなかったのは、断食そのものに価値があるのではなく、断食に取り組む姿勢、断食する者の心の状態がより肝心だということだったのです。
そもそも、旧約聖書の儀式などは、その儀式そのもののためにあるのではなく、それが指し示す真理のメッセージを伝えるためにありました。動物のいけにえも、その動物の血に効力があったわけではありません。
いったい、律法はきたるべき良いことの影をやどすにすぎず、そのものの真のかたちをそなえているものではないから、年ごとに引きつづきささげられる同じようないけにえによっても、みまえに近づいて来る者たちを、全うすることはできないのである。もしできたとすれば、儀式にたずさわる者たちは、一度きよめられた以上、もはや罪の自覚がなくなるのであるから、ささげ物をすることがやんだはずではあるまいか。しかし実際は、年ごとに、いけにえによって罪の思い出がよみがえって来るのである。なぜなら、雄牛ややぎなどの血は、罪を除き去ることができないからである。それだから、キリストがこの世にこられたとき、次のように言われた、「あなたは、いけにえやささげ物を望まれないで、わたしのために、からだを備えて下さった。あなたは燔祭や罪祭を好まれなかった。その時、わたしは言った、『神よ、わたしにつき、巻物の書物に書いてあるとおり、見よ、御旨を行うためにまいりました』」。ここで、初めに、「あなたは、いけにえとささげ物と燔祭と罪祭と(すなわち、律法に従ってささげられるもの)を望まれず、好まれもしなかった」とあり、次に、「見よ、わたしは御旨を行うためにまいりました」とある。すなわち、彼は、後のものを立てるために、初めのものを廃止されたのである。この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。
ヘブル10:1〜10
動物のいけにえは罪を清める効力はありませんが、彼らはそのようにするように命じられていました。なぜならば、それは来るべきイェスの血を象徴するものだったからです。しかしそのいけにえを捧げるのに、その血の清めが必要な自分を棚に上げてその儀式に頼るのは間違っていますし、そのようないけにえは主に受け入れられるものではありません。また、規定を満たすようないけにえを惜しんで、規定を満たさないいけにえを捧げたりもしました。
しかし、その獣がもし傷のあるもの、すなわち足なえまたは、盲目など、すべて悪い傷のあるものである時は、あなたの神、主にそれを犠牲としてささげてはならない。
申命記15:21
汚れた食物をわたしの祭壇の上にささげる。またあなたがたは、主の台は卑しむべき物であると考えて、『われわれはどんなふうに、それを汚したか』と言う。あなたがたが盲目の獣を、犠牲にささげるのは悪い事ではないか。また足のなえたもの、病めるものをささげるのは悪い事ではないか。今これをあなたのつかさにささげてみよ。彼はあなたを喜び、あなたを受けいれるであろうかと、万軍の主は言われる。あなたがたは、神がわれわれをあわれまれるように、神の恵みを求めてみよ。このようなあなたがたの手のささげ物をもって、彼はあなたがたを受けいれられるであろうかと、万軍の主は言われる。あなたがたがわが祭壇の上にいたずらに、火をたくことのないように戸を閉じる者があなたがたのうちに、ひとりあったらいいのだが。わたしはあなたがたを喜ばない、またあなたがたの手からささげ物を受けないと、万軍の主は言われる。
マラキ1:7〜10
確かに、人間に捧げて喜ばれない不完全ないけにえを、主が喜ばれるはずがありません。また、不完全なものをキリストの血の予型として捧げるならば、それはキリストの血を不完全で汚れたものとする罪でもあります。「ただの予型だから」という理論は通用しません。主の晩餐(聖餐式)の形式を疎かにしたコリントの教会も、そのことを身をもって実感することになりました。
そこで、あなたがたが一緒に集まるとき、主の晩餐を守ることができないでいる。というのは、食事の際、各自が自分の晩餐をかってに先に食べるので、飢えている人があるかと思えば、酔っている人がある始末である。あなたがたには、飲み食いをする家がないのか。それとも、神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか。わたしはあなたがたに対して、なんと言おうか。あなたがたを、ほめようか。この事では、ほめるわけにはいかない。わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである。しかし、自分をよくわきまえておくならば、わたしたちはさばかれることはないであろう。しかし、さばかれるとすれば、それは、この世と共に罪に定められないために、主の懲らしめを受けることなのである。それだから、兄弟たちよ。食事のために集まる時には、互に待ち合わせなさい。もし空腹であったら、さばきを受けに集まることにならないため、家で食べるがよい。そのほかの事は、わたしが行った時に、定めることにしよう。
Iコリント11:20〜34
やはり礼拝に参加するとき、私たちは一週間の良いわざを携えてくるのが、どのような立派な礼拝内容よりも主を喜ばせるものなのです。その上で、礼拝の意味を理解し、守り行うのです。新約教会の決まりや儀式は旧約のモーセの律法に比べるとはるかに少ないのですが、無ではありません。例えば、教会の典礼はふたつだけ(主の晩餐とバプテスマ)ですが、それにもここ数世紀内に様々な間違った運用が横行するようになってきています。
・バプテスマ
本来:死、埋葬、復活を象徴する浸水礼
→注水礼や滴礼のような簡略化
本来:信仰告白をした信者が対象
→幼児も対象
本来:信仰を持った者が決意を公表するのが目的
→入信が目的の「洗礼」
・主の晩餐
本来:パン種入れぬパン(無発酵)
→食パン
本来:ぶどう酒(アルコールの有無を問わず、100%果汁)
→ジュース
本来:地元の群れのメンバーが対象
→群れを問わず、信仰をもっている者全てが対象(日本バプテスト連盟は未信者まで対象)
私たちが守り行う形式や教理のひとつひとつを理解し、形の意味と内容の本質、すなわち霊とまことをもって礼拝するようにしましょう。