み言葉を託された者:ホセア(4)
それゆえ、見よ、わたしは彼女をいざなって、荒野に導いて行き、ねんごろに彼女に語ろう。その所でわたしは彼女にそのぶどう畑を与え、アコルの谷を望みの門として与える。その所で彼女は若かった日のように、エジプトの国からのぼって来た時のように、答えるであろう。
ホセア書2:14〜15
先週の話の続きです。主はイスラエルの罪を罰するが、愛してやまない、元の関係に戻りたくて仕方がない、ということなのです。今日の聖書朗読の箇所では、主はイスラエルを少女に例え、昔の様にデートに誘い出す、という描写です。イスラエルを荒野に連れ出して、「ねんごろに語る」というのです。「ねんごろ」を国語辞典で引いてみると、こうあります。
親しいさま。特に、男女の仲が親密であるさま。
主は本当にイスラエルと、そして人類と、また一緒になりたいのです。ともに住まい、ともに歩みたいのです。
実際、人類の歴史を通して、主が人類に関わったこと全てがこのプロセスなのです。エデンの園で人類が種に対して裏切った時は、追い出されたアダムとエバも当然辛かったでしょうが、そうせざるを得なかった主はもっと辛かったでしょう。その後のノアとの契約、アブラハムとの契約、モーセとの契約、そして主の十字架と蘇りを通しての新約の新しい契約も、全て人と神とが一緒になる世界の構築のための一歩なのです。人類の歴史全てが、神との復縁へのプロセスであることを考えた場合、私たちはどの様に生きれば良いのでしょうか?
ヒントになるのが、使徒行伝の1章にあります。
さて、弟子たちが一緒に集まったとき、イエスに問うて言った、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。彼らに言われた、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。
使徒行伝1:6〜8
ここで、弟子たちと主との間で衝突や軋轢というものは見受けられませんが、双方が希望する状況に対する感覚のズレが際立ちます。人間の側としては、すぐにでも主がイスラエルを復興して神が人と共に住まう世界が実現してほしいと願っているのに対して、主の側としては、ならばそれの実現につながることをしなさい、ということです。つまり、地の隅々まで福音が述べ伝えられなければその条件が全く揃わないのであって、それもせずに即刻のイスラエル復興を望むのはあまりにも端的だろう、ということです。
というわけで、私たち教会は、この重要な使命の大きな部分を任されているのです。ならば、人数をかき集めて、人海戦術で機動的に全世界に福音を延べ伝えれば、主の来臨を呼び込むことができるのは?いかにも端的な発想の人間が考えそうなことですが、実際に、20世紀にアメリカの南部バプテスト連盟がこれを実践しようとしたのです。これを試みたのは初めての教団ではありませんが。しかし、その結果は、力を入れれば入れるほど、人間主体の努力や手法に偏るものとなり、結局は多くの労力を費やしたものの目標を達成できませんでした。
それに対して、私たちの参考になる箇所がエペソ人への手紙にあります。
妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。キリストが教会のかしらであって、自らは、からだなる教会の救主であられるように、夫は妻のかしらである。そして教会がキリストに仕えるように、妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである。夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。それと同じく、夫も自分の妻を、自分のからだのように愛さねばならない。自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのである。自分自身を憎んだ者は、いまだかつて、ひとりもいない。かえって、キリストが教会になさったようにして、おのれを育て養うのが常である。わたしたちは、キリストのからだの肢体なのである。「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」。この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている。いずれにしても、あなたがたは、それぞれ、自分の妻を自分自身のように愛しなさい。妻もまた夫を敬いなさい。
エペソ3:22〜33
つまり、私たちが生きている間に焦って何かの結果を引きずり出すのではなく、私たちが生きている間、どの様な存在であり続けるのか、ということですこの様な一人ひとりの生き方が、悠久の時を経て、主の来臨の用意を進めるのです。ここにあるのは夫婦のあるべき姿ですが、主のみ心を行い御国の到来につなげるのであれば、何よりも大切なのは私たち一人ひとりがどの様な存在であり続けるのか、が重要であるということです。私たちがどの様な存在であることを主が願っておられるかを知り、理解し、その姿に変えられていくことです。別の言い方をすれば、主が私たちのために何ができるかを思うのではなく、私たちが主のために何ができるのか、主のためにどの様な存在になるべきなのか、を思うことです。
この様なメッセージは皆様も何度も聞いたことがあると思いますが、私が説教者・牧師になってからの40年近い年月の中で、礼拝のメッセージに対して何度か同じご批判、つまり注文、を受けたことがあります。
「聖書の朗読箇所が多すぎる、情報量が多すぎる。礼拝に来ている人は一週間の繁忙から離れてホッとしに来ているのだから、古代イスラエルの話や教会教理の話は聞きたくない。ホッとする様な話が聞きたい。」
この様に話された方は決して悪い方でもなく、悪意があるわけでもありません。しかし、その背景にある思いを見ていくと、「御姿に変えられて行く」ことを望んでいるのではなく、「今のままの自分が肯定される」ことを望んでいるのです。これでは、一部の行動を除いては、ホセアに登場するイスラエルの姿とほとんど変わりません。イスラエルが主の「復縁願望」に無関心であったのと同様に、今日のクリスチャンの多くも、主のその様な思いに対してあまりにも無関心、自分中心になっている世の中なのではないのでしょうか?
私たちは主の祈りの中で、「御国を来らせたまえ」と祈ります。これは実はキリスト教以前のユダヤ教の時代からの祈りの文言で、「よみがえりの日」(オラム・ハバ)、つまりメシアの来臨と新しい世界を熱望するものです。ユダヤ教の一派では、「この文言がない祈りは、祈りとは言えない」と言われているそうです。
当然、私たちもそれを熱望しますが、それが実現した日には、私たちが地上で大切しているものが全て終わることも同時に意味しています。国家、民族、文化風習、音楽や芸術、その他一切のものが焼き尽くされて煙となって立ち上り、主が望まれるものだけが残るのです。
さて、御国に入ったら、皆様は何がしたいですか?これが引っかけ問題であることをはじめから明言しておきますが、私としては、両親と再会したいですね。それから、音楽関係でいえば、バッハやエルヴィスとも会ってみたいです。ものすごい人数ですから、すぐには会えないでしょうが、時間は無限にあるので、どこかで会えるでしょう。しかし、仮に会えても、彼らは地上時代のヒット曲を歌っているのではなく、子羊の新しい歌を歌っていることでしょう。
というわけで、「御国に入ったら、私は何がしたいか」がなぜ引っかけ問題なのか、についてです。御国は、「私」の願望をかなえる場所ではなく、主の御心が実現する場所なのです。ならば、主の御国の到来を待ち望む私たちがこの地上で、主の御心よりも「私」の願望を抱えているのでは、あまり役に立たないのでは?という疑問も出てきます。時代背景などは大きく違いますが、ホセアの時代のイスラエルと私たちは同じ罪ある人間、原理は同じです。
最後に、ホセア書の結びです。
イスラエルよ、あなたの神、主に帰れ。あなたは自分の不義によって、つまずいたからだ。あなたがたは言葉を携えて、主に帰って言え、「不義はことごとくゆるして、よきものを受けいれてください。わたしたちは自分のくちびるの実をささげます。アッスリヤはわたしたちを助けず、わたしたちは馬に乗りません。わたしたちはもはや自分たちの手のわざに向かって『われわれの神』とは言いません。みなしごはあなたによって、あわれみを得るでしょう」。わたしは彼らのそむきをいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからである。わたしはイスラエルに対しては露のようになる。彼はゆりのように花咲き、ポプラのように根を張り、その枝は茂りひろがり、その麗しさはオリブの木のように、そのかんばしさはレバノンのようになる。彼らは帰って来て、わが陰に住み、園のように栄え、ぶどうの木のように花咲き、そのかんばしさはレバノンの酒のようになる。エフライムよ、わたしは偶像となんの係わりがあろうか。あなたに答え、あなたを顧みる者はわたしである。わたしは緑のいとすぎのようだ。あなたはわたしから実を得る。知恵ある者はだれか。その人にこれらのことを悟らせよ。悟りある者はだれか。その人にこれらのことを知らせよ。主の道は直く、正しき者はこれを歩む。しかし罪びとはこれにつまずく。
ホセア書14章