み言葉を託された者:ホセア(1)
ユダヤの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの世、イスラエルの王ヨアシの子ヤラベアムの世に、ベエリの子ホセアに臨んだ主の言葉。主が最初ホセアによって語られた時、主はホセアに言われた、「行って、淫行の妻と、淫行によって生れた子らを受けいれよ。この国は主にそむいて、はなはだしい淫行をなしているからである」。そこで彼は行ってデブライムの娘ゴメルをめとった。彼女はみごもって男の子を産んだ。主はまた彼に言われた、「あなたはその子の名をエズレルと名づけよ。しばらくしてわたしはエズレルの血のためにエヒウの家を罰し、イスラエルの家の国を滅ぼすからである。その日、わたしはエズレルの谷でイスラエルの弓を折る」と。ゴメルはまたみごもって女の子を産んだ。主はホセアに言われた、「あなたはその名をロルハマと名づけよ。わたしはもはやイスラエルの家をあわれまず、決してこれをゆるさないからである。しかし、わたしはユダの家をあわれみ、その神、主によってこれを救う。わたしは弓、つるぎ、戦争、馬および騎兵によって救うのではない」と。ゴメルはロルハマを乳離れさせたとき、またみごもって男の子を産んだ。主は言われた、「その子の名をロアンミと名づけよ。あなたがたは、わたしの民ではなく、わたしは、あなたがたの神ではないからである」。
ホセア1:1〜9
いきなり、とんでもない指令を受けますね、ホセア。娼婦と結婚して子を儲けなさい?しかも、その子供達に主が与えた名前もすごいです。「エズレル」は、アハブとイゼベルがバアル崇拝を広めるのに活動の拠点として使っていた街、その後は大変な血みどろの舞台になります。「ロルハマ」は、「あわれまない」という意味です。そして、「ロアミン」とは、「nobody(誰でもない)」という意味です。
これは、いくら神様と言えど、横暴すぎないでしょうか?この人たちにも人権があるのではないでしょうか?確かに、人権はあります。人間同士ならば、それは絶対的に守られなければなりませんが、それが守られないためにアモスが憤っていたのです。しかし、私たち人間は、主の前に均一かつ画一的に立場が保証されるべきだと訴える権利はありません。主は御計画のために人を様々なところで、様々な形で用いられるのです。
陶器が陶器師と争うように、おのれを造った者と争う者はわざわいだ。粘土は陶器師にむかって『あなたは何を造るか』と言い、あるいは『あなたの造った物には手がない』と言うだろうか。父にむかって『あなたは、なぜ子をもうけるのか』と言い、あるいは女にむかって『あなたは、なぜ産みの苦しみをするのか』と言う者はわざわいだ」。イスラエルの聖者、イスラエルを造られた主はこう言われる、「あなたがたは、わが子らについてわたしに問い、またわが手のわざについてわたしに命ずるのか。わたしは地を造って、その上に人を創造した。わたしは手をもって天をのべ、その万軍を指揮した。
イザヤ45:9〜12
もちろん、人間的に見て損な役回りを与えられた人も、与えられたところで咲くならば、主はその人に対してそれなりの報いを与えてくださいます。そして、余談ですが、ホセアよりもかなり過酷な指令を言い渡され預言者もいました。その話は、またいずれ。
しかし、なぜ主はこの様な無理難題を預言者たちに押し付けたのでしょうか?そもそも、民がモーセの律法を守っていれば、娼婦自体存在しないでしょうし、娼婦と結婚することもモーセの立法に違反するはずでは?
ところが、民はモーセの律法に全く従っていません。結婚する相手の娼婦も、コソコソと身元を隠し娼婦を営んでいた人を探し出したのではなく、「デブライムの娘ゴメル」という、きちんとした社会的立場を持った人をめとりました。これができたこと自体が主のメッセージでもありました。
主は様々な形で預言者などのメッセンジャーを通して語り掛けました。時には言葉で、時には奇跡で、そして時にはこの様に「目に見える形」で、まるで寸劇の様に。ホセアとしては、生涯をかけた舞台でした。
さて、ホセア書のテーマは「淫行」とそれに対する神怒りです。「淫行」というのは、結婚した相手がいるのにもかかわらず、他人と性行為を持つことです。それなら、私はそういうことはしていないから大丈夫?いや、そんなに単純な話ではありません。
確かに、イスラエルには性的な不道徳がたくさんありました。しかし、主が「淫行」としているのは、人々が自分の結婚相手と異なる人と寝ていることではなく、象徴的な話です。つまり、イスラエルの人々にはエホバという夫がいるのにもかかわらず、バアルという偽の主に心を寄せて、これを崇拝しているのです。夫婦間で相手が他の人と寝たら、そういうことをされた方は悲しくて悔しくて仕方がないでしょう。それと同じ様に、主は人々のバアル崇拝を見て、悲しくて悔しくて仕方がないのです。実際、旧約聖書で何度も、主はご自分のことを「妬む神」と言われています。
ああ、それなら私は偶像崇拝をしないから大丈夫、というのもフライイングです。「偶像」というのは、木、石、金属などの象に礼拝を捧げることに限定されません。
彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。
ピリピ3:19
ここで「彼らの神はその腹」とありますが、これは別に彼らが食い道楽だとか大食漢だとかそういうことではなく、彼らは自分たちの肉の思い、地上の思いを神の代わりにしてしまっているということです。
そして、私たち人間が神の代わりにしてしまいうるものは、他にもたくさんあります。仕事、学歴、富、家族、趣味、これらのものはどれも本質的には悪ではありませんが、それが主が望んでおられる生き方や主の望まれる道より優先される様になったなら、その時点で、バアル崇拝と変わらない存在になってしまうのです。
それだけではありません。私たちが自分の思いから主に仕えようと思った場合、慈善活動、ボランティア、人助けも、私たちの神になってしまうこともあります。さらに人によっては一生懸命やっていた聖書研究、祈り、福音伝道も、神に屈服した心からではなく自分中心で自己満足的な思いからやっていたということに気づくこともあります。教会における聖日礼拝が偶像礼拝になってしまっているということもあり得ますので、私たちは何をするにおいても、それが私たちの気持ちを満たすためではなく、主を喜ばせるものとなる様に、気をつけなければなりません。そう考えると、ホセアの言葉は私たちにとって決して無関係ではありません。なぜならば、近代社会においては、最もポピュラーな偶像は、「私」というものだからです。
さて、北のイスラエルは罪を悔い改めないため、一旦断ち滅ぼさなければなりません。しかし、その先に私たちの主の本当の御姿があります。結婚相手に不倫された場合、なんとも思わない人はまずいないでしょうが、その先は、人によって様々な考え方があるでしょう。人によっては、相手の全てを奪った上に地獄の底まで突き落としてもまだ気が済まないという人もいるでしょうし、人によっては、謝るのであれば許してもいい、という人もいるでしょう。主の最終的な目的は、イスラエルの殲滅ではなく、イスラエルの復興です。私たちと主の関係においても同じことが言えるので、注意深くホセア書を読む様にしたいと思います。
主は言われる、その日には、あなたはわたしを『わが夫』と呼び、もはや『わがバアル』とは呼ばない。わたしはもろもろのバアルの名を彼女の口から取り除き、重ねてその名をとなえることのないようにする。その日には、わたしはまたあなたのために野の獣、空の鳥および地の這うものと契約を結び、また弓と、つるぎと、戦争とを地から断って、あなたを安らかに伏させる。またわたしは永遠にあなたとちぎりを結ぶ。すなわち正義と、公平と、いつくしみと、あわれみとをもってちぎりを結ぶ。わたしは真実をもって、あなたとちぎりを結ぶ。そしてあなたは主を知るであろう。
ホセア2:16〜20