み言葉を託された者:ヨエル(3)
その時主は自分の地のために、ねたみを起し、その民をあわれまれた。主は答えて、その民に言われた、「見よ、わたしは穀物と新しい酒と油とをあなたがたに送る。あなたがたはこれを食べて飽きるであろう。わたしは重ねてあなたがたにもろもろの国民のうちでそしりを受けさせない。わたしは北から来る者をあなたがたから遠ざけ、これをかわいた荒れ地に追いやり、その前の者を東の海に、その後の者を西の海に追いやる。その臭いにおいは起り、その悪しきにおいは上る。これは大いなる事をしたからである。地よ恐るな、喜び楽しめ、主は大いなる事を行われたからである。野のもろもろの獣よ、恐るな。荒野の牧草はもえいで、木はその実を結び、いちじくの木とぶどうの木とは豊かに実る。シオンの子らよ、あなたがたの神、主によって喜び楽しめ。主はあなたがたを義とするために秋の雨を賜い、またあなたがたのために豊かに雨を降らせ、前のように、秋の雨と春の雨とを降らせられる。打ち場は穀物で満ち、石がめは新しい酒と油とであふれる。わたしがあなたがたに送った大軍、すなわち群がるいなご、とびいなご、滅ぼすいなご、かみ食らういなごの食った年をわたしはあなたがたに償う。あなたがたは、じゅうぶん食べて飽き、あなたがたに不思議なわざをなされたあなたがたの神、主のみ名をほめたたえる。わが民は永遠にはずかしめられることがない。あなたがたはイスラエルのうちにわたしのいることを知り、主なるわたしがあなたがたの神であって、ほかにないことを知る。わが民は永遠にはずかしめられることがない。
ヨエル2:18〜27
イスラエルが悔い改めて立ち返ったならばどの様になるか、の状況説明です。素晴らしい祝福が訪れるのです。実際、主に従うことによって祝福を受けることそのものが、イスラエルの役割であり、大きな存在意義だったのです。
主は言われた、「見よ、わたしは契約を結ぶ。わたしは地のいずこにも、いかなる民のうちにも、いまだ行われたことのない不思議を、あなたのすべての民の前に行うであろう。あなたが共に住む民はみな、主のわざを見るであろう。わたしがあなたのためになそうとすることは、恐るべきものだからである。
出エジプト記34:10
もしあなたがたがわたしの定めに歩み、わたしの戒めを守って、これを行うならば、わたしはその季節季節に、雨をあなたがたに与えるであろう。地は産物を出し、畑の木々は実を結ぶであろう。あなたがたの麦打ちは、ぶどうの取入れの時まで続き、ぶどうの取入れは、種まきの時まで続くであろう。あなたがたは飽きるほどパンを食べ、またあなたがたの地に安らかに住むであろう。わたしが国に平和を与えるから、あなたがたは安らかに寝ることができ、あなたがたを恐れさすものはないであろう。わたしはまた国のうちから悪い獣を絶やすであろう。つるぎがあなたがたの国を行き巡ることはないであろう。あなたがたは敵を追うであろう。彼らは、あなたがたのつるぎに倒れるであろう。あなたがたの五人は百人を追い、百人は万人を追い、あなたがたの敵はつるぎに倒れるであろう。わたしはあなたがたを顧み、多くの子を獲させ、あなたがたを増し、あなたがたと結んだ契約を固めるであろう。あなたがたは古い穀物を食べている間に、また新しいものを獲て、その古いものを捨てるようになるであろう。わたしは幕屋をあなたがたのうちに建て、心にあなたがたを忌みきらわないであろう。わたしはあなたがたのうちに歩み、あなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となるであろう。
レビ記26:3〜12
ということは、新約の契約のもとにいる私たちも、旧約の律法、あるいは新約の契約の教えを守れば、生活のあらゆる面で豊になり、順風満帆の人生を送れるということでしょうか?残念ながら、その様なことを教える教会や宣教団体があとを断ちません。
アメリカのメガ・チャーチの文化もそのひとつです。メガ・チャーチは、社会通念状、保守系の教会であるということになっています。メガ・チャーチの多くは政治的には保守寄り、また、聖書を実際に神の言葉として捉えるなど、保守的な要素をある程度持っています。しかし、その思想を一言でまとめると、この様なものになります。
“God wants you to be rich and successful”
「神は、あなたが裕福になり成功者になることを望んでいる」
それに対して、イェスはこう言われています。
これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。
ヨハネ16:33
わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。
マタイ5:11〜12
このことは、新約聖書を通して様々な箇所で教えられています。
いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。
IIテモテ3:12
イスラエルが置かれていた環境は、限定された状況下においての、非常に特殊なものでした。神の律法を守り行うことで祝福を受け、それを通して周囲の国々に神の素晴らしさを見せつける、その様にして世界に神の名を知らしめる、という極めて特殊な任務でした。
そしてさらに、その律法に従わなければ、神に厳しく裁かれることで、周囲の国々にとって反面教師となり、神を恐れ敬うべきことを自らの身を通して伝えるというものでした。実際、イスラエルは後者の状況にいた時間の方がかなり多かったのです。前者の様に祝福された時代は限られたものでした。ダビデからソロモンの時代においては、南北統一イスラエルは大繁栄しましたが、ソロモンは途中から神に従うことによる祝福から、人智に従う方向に舵を切り、最終的にはイスラエルに偶像礼拝を持ち込ませてしまいました。
バビロン捕囚の後、ユダはエルサレムを再建しますが、偶像崇拝を破棄した以外は律法に従っていない点が多く、様々な問題を引き起こしました。マカバイ戦争では武力闘争で独立国家の地位を得ましたが、その経過でイェスが問題にされたラビ中心の政権が強化され、決して神の祝福の対象とはならない存在へと変わっていってしまいました。さらに、離散民族となったユダヤ人は、1948年に建国を果たしますが、未だにキリストをメシアとして受け入れず、ラビたちによる人間の教えに執着しています。未だに約束された祝福を受けずにいます。
ところで、私たちが主に忠実に従った時の祝福というのはどの様なものでしょうか?裕福になることではければ、どの様なことに期待できるのでしょうか?
ペテロがイエスに言い出した、「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従って参りました」。イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、必ずその百倍を受ける。すなわち、今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受ける。しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう」。
マルコ10:30
仮に様々なものを手放さなければなり、貧しくなったにしても、教会という家族を通してその何倍もの仲間と必要品を、迫害を受けながらもその時にかなって受けることができるのです。「恵、汝に足れり」です。そして、この世での務めが終わった後には、本当の安息が待っているのです。
この安息を、この地上で実現しようとする試みがいくつもキリスト教の歴史の中で起こり、様々な異端や悲劇を産み出してきました。今日の最後にひとつの有名な事例を紹介したいと思います。
1620年に、ピューリタンたちがイギリスから逃れてアメリカ大陸に渡りました。自分たちこそが真の神の民であると確信していた彼らは、奴隷の地エジプト(イギリスのこと)にいるパロ(英国王のこと)から逃れて紅海(大西洋)を渡り、約束の地カナン(アメリカ大陸)に入ったつもりでした。そこで彼らは、新しいエルサレムを自らの手で築き、主の祝福の中で主の再臨を待つつもりでした。その名残として、今でもアメリカには「ニュー・エルサレム」という地名が残されています。
彼らは、アメリカ大陸にいた先住民に福音を伝え、そうやって仲間を増やそうとしました。ピューリタンたちが述べ伝える、神に豊かに恵まれた世界の実現という構想に多くの先住民が賛同し、クリスチャン人口が増えていきました。しかし、病疫や飢饉が起こると、先住民たちの間には不信感が生まれ、その上におたふく風邪や風疹など、先住民が免疫を全く持たない病気を入植者たちが持ち込んだことにより、先住民の集落の全員が命を落としてしまうという出来事も発生しました。この様な事柄が積み重なり、最終的には先住民と入植者との間の戦争に発展してしまいます。アメリカ史の悲惨な一幕です。
私たちはこの地上に御国を作り出すことはできません。しかし、正しく生きることで、主のために道を備えることはできます。そうしている私たちをも、主は恵んでくださいます。
わたしは信じます、生ける者の地でわたしは主の恵みを見ることを。主を待ち望め、強く、かつ雄々しくあれ。主を待ち望め。
詩篇27:13〜14