み言葉を託された者:ヨエル(2)
主は言われる、「今からでも、あなたがたは心をつくし、断食と嘆きと、悲しみとをもってわたしに帰れ。あなたがたは衣服ではなく、心を裂け」。あなたがたの神、主に帰れ。主は恵みあり、あわれみあり、怒ることがおそく、いつくしみが豊かで、災を思いかえされるからである。神があるいは立ち返り、思いかえして祝福をその後に残し、素祭と灌祭とをあなたがたの神、主にささげさせられる事はないとだれが知るだろうか。シオンでラッパを吹きならせ。断食を聖別し、聖会を召集し、民を集め、会衆を聖別し、老人たちを集め、幼な子、乳のみ子を集め、花婿をその家から呼びだし、花嫁をそのへやから呼びだせ。主に仕える祭司たちは、廊と祭壇との間で泣いて言え、「主よ、あなたの民をゆるし、あなたの嗣業をもろもろの国民のうちに、そしりと笑い草にさせないでください。どうしてもろもろの国民に、『彼らの神はどこにいるか』と言わせてよいでしょうか」。
ヨエル2:12〜17
先週は、イスラエルの人々が無責任な農法や社会活動で悲劇を呼び込み、社会格差を拡大させて主を怒らせていた様子を学びました。今回は、ことの本質、心のあり方に迫ります。これが、何よりも主を怒らせていたとこです。ヨエル2:13 の、「あなたがたは衣服ではなく、心を裂け」の一言がこれを見事に表現しています。
「衣を裂く」のは、当時の人々が究極の悲しみや反省を表現する行動です。日本にはない風習ですので、正しい理解を保つためにその内容を確認したいと思います。これは、服をビリビリと引きちぎることではありません。当時の人が着ていた服は和服と同じ様に、胸元で衣の左右を重ねて、帯でまとめるというものでした。ここで和服でも重要なのが、その重なり方がきちんとまとまっているか、というものです。男女を問わず、胸元が緩んでいたら「だらしない」ということになります。
そして、「衣を裂く」行為とは、きちんとまとまっていなければならない衣の胸元を左右に引っ張って開き、胸とお腹の一部を露わにすることでした。それは、「きちんとするとかしないとかどころではない、大変な悲劇が私を襲った」ことをアピールする行動でした。例えば身内が急死した時などはその様にして、頭から灰を被り、ゴザも敷かずに地べたに座り込み、食を絶って悲しみを表現したのです。
ここの「あなたがたは衣服ではなく、心を裂け」の表現は、非常に強烈なものです。ここからは、彼らは少なくとも外向きの行動では砕かれた体裁を示していたことがわかります。しかし、それは本当に主に立ち返ることを示していたものではなく、あくまでも自分の都合で自分中心に主に従う心を持っていたことの現れでもあります。
彼らのこの様な姿勢は、他の預言書からも見て取れます。
主は言われる、「あなたがたがささげる多くの犠牲は、わたしになんの益があるか。わたしは雄羊の燔祭と、肥えた獣の脂肪とに飽いている。わたしは雄牛あるいは小羊、あるいは雄やぎの血を喜ばない。あなたがたは、わたしにまみえようとして来るが、だれが、わたしの庭を踏み荒すことを求めたか。あなたがたは、もはや、むなしい供え物を携えてきてはならない。薫香は、わたしの忌みきらうものだ。新月、安息日、また会衆を呼び集めること――わたしは不義と聖会とに耐えられない。あなたがたの新月と定めの祭とは、わが魂の憎むもの、それはわたしの重荷となり、わたしは、それを負うのに疲れた。
イザヤ1:11〜14
あなたがたは言葉をもって主を煩わした。しかしあなたがたは言う、「われわれはどんなふうに、彼を煩わしたか」。それはあなたがたが「すべて悪を行う者は主の目に良く見え、かつ彼に喜ばれる」と言い、また「さばきを行う神はどこにあるか」と言うからである。
マラキ2:17
イスラエルの人々は、神への礼拝を完全に放棄したわけではありません。実際、北のイスラエルでは、南北分断の際に北のヤラベアム一世が偶像崇拝を国教に定めたのですが、その後アハブ王がイゼベルにそそのかされてバアル信仰を導入します。アハブ亡き後、このことに対する反省としてエホバ崇拝が再導入されるのですが、それは本心からの立ち返りではなく、むしろカルチャー的なものでした。
「日本人なら神道」の様に、「イスラエル人ならエホバ」といったレベルのものでした。主人公はあくまでも主ではなく、人間なのです。そして南北を問わず、その様な姿勢で、自分の納得のいく形で律法を守っていたのです。
一例をあげましょう。モーセの十戒には、こうあります。
安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。
出エジプト記20:8〜11
ユダヤ教の基本のひとつですね。そしてこれに抵触しないために、彼らは様々な追加的なルール、神が求めてもいないルールをたくさん作りました。今日でも、保守的なユダヤ教徒は、トイレットペーパーをちぎるのも労働だからだめ、前日に必要な分を全てちぎっておく。ワインの栓を抜くのも労働だからダメ、前日のうちに安息日に飲む本数分抜いておく。外を歩くときは、杖を持ち歩いてはいけない。なぜならばその杖の先端がうっかり地面を擦ったりしたらば、「耕す」行為になってしまうから。
一方、祭司や商人など、安息日であっても忙しく動きまわりたい人たちもいます。安息日のうちに歩ける距離は厳格に定められていたのですが(約900メートル)、「それは町と町の間の話であって、エルサレムの中であればいくら歩いても構わない」とか、「町の間に、保存食を置いた休憩ポストを作り、その休憩ポストで休憩すれば距離はゼロにリセットされる」という、なんとも幼稚なルールを次々と生み出していきます。
トイレットペーパーをちぎってはいけないが、街の中では歩き放題?休憩ポストでゼロにリセット?それで神に従っていると確信している?これがどの様に、創造主が7日目に休まれ、被造物である私たちが創造主に服従していることを表しているというのか?
こう考えると、主がなぜ怒り心頭で、イスラエルがそれを理解できていないか、この構図の本質が見えてきます。「あなたがたは衣服ではなく、心を裂け」の真意がここにあります。「衣を裂く」というのは、表向きの行為です。「心を裂く」のは、自分中心ではなく、主を中心とした関係に立ち返ることです。
主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。
詩篇34:18
しかし、ここで求められているのは、全員参加の悔い改めです。国家として主に背いたのだから、国家全員で立ち返る必要があります。「花婿をその家から呼びだし、花嫁をそのへやから呼びだせ。」とありますが、これはハネムーン中の新婚さんを意味しています。旧約の律法では、新婚は、兵役のためであってもなんであっても、邪魔をしてはいけない、呼び出してはいけない、という決まりがありました。
しかし、新婚でも呼び出せ、というこの箇所は、この悔い改めがあくまでも人間中心ではなく、神中心出なければならない、ということを明確にしています。これは、今日の私たちにとっても全く同じことです。悔い改めた場合の祝福について、次回考えたいと思います。