八王子バプテスト教会通信

8月21日のメッセージ 2022年8月21日

み言葉を託された者:アモス(2)

兄弟に利息を取って貸してはならない。金銭の利息、食物の利息などすべて貸して利息のつく物の利息を取ってはならない。

申命記23:19

 

あなたが隣人に物を貸すときは、自分でその家にはいって、質物を取ってはならない。あなたは外に立っていて、借りた人が質物を外にいるあなたのところへ持ち出さなければならない。もしその人が貧しい人である時は、あなたはその質物を留めおいて寝てはならない。その質物は日の入るまでに、必ず返さなければならない。そうすれば彼は自分の上着をかけて寝ることができて、あなたを祝福するであろう。それはあなたの神、主の前にあなたの義となるであろう。貧しく乏しい雇人は、同胞であれ、またはあなたの国で、町のうちに寄留している他国人であれ、それを虐待してはならない。賃銀はその日のうちに払い、それを日の入るまで延ばしてはならない。彼は貧しい者で、その心をこれにかけているからである。そうしなければ彼はあなたを主に訴えて、あなたは罪を得るであろう。父は子のゆえに殺さるべきではない。子は父のゆえに殺さるべきではない。おのおの自分の罪のゆえに殺さるべきである。寄留の他国人または孤児のさばきを曲げてはならない。寡婦の着物を質に取ってはならない。あなたはかつてエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主がそこからあなたを救い出されたことを記憶しなければならない。それでわたしはあなたにこの事をせよと命じるのである。あなたが畑で穀物を刈る時、もしその一束を畑におき忘れたならば、それを取りに引き返してはならない。それは寄留の他国人と孤児と寡婦に取らせなければならない。そうすればあなたの神、主はすべてあなたがする事において、あなたを祝福されるであろう。あなたがオリブの実をうち落すときは、ふたたびその枝を捜してはならない。それを寄留の他国人と孤児と寡婦に取らせなければならない。またぶどう畑のぶどうを摘み取るときは、その残ったものを、ふたたび捜してはならない。それを寄留の他国人と孤児と寡婦に取らせなければならない。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったことを記憶しなければならない。それでわたしはあなたにこの事をせよと命じるのである。

申命記24:10〜22

まず最初に、アモスの言葉ではなく、アモスが言及し、イスラエルの人々を責める根拠としている、モーセの律法の言葉からです。モーセの律法のイメージとしては、一般的に、偶像崇拝や不道徳を禁止する条項をイメージし気味ですが、モーセの律法の規定は生活全般にわたっており、社会における公正や正義が保たれる仕組みについてもかなりの分量が割かれています。これは、古代の律法や憲法の中では珍しいことです。

ハムラビ法典の様な古代の法律の多くを分析すると、その趣旨は、「犯罪が行われた場合は、その犯罪に対する復讐を制限する」ことに重点が置かれていました。どういうことでしょうか?古代の社会においては、例えば殺人や強盗の様な犯罪が行われた場合は、その犯罪に対して、被害者の親族や仲間が復讐に出て仇を撃つ文化がありました。今の一部のイスラム文化圏でもその文化がそのまま残っています。

以前、特派員として中東に派遣されていた方の話を聞く機会がありました。その方が言うには、現地に到着して活動を始めると、すぐに気づくことがあったそうです。それは、未解決に終わる殺人事件や爆破事件の多さ。しかも、警察も動く気配が全くないというのです。いろいろ聞いてみると、それは500年前とか700年前とかに、自分の親族が相手の親族に殺されたとかいうことに対する復讐だというのです。そして、その復讐に近代社会の法が適用されるかというと、そうではなく、その復讐が野放しになっているのです。それどころか、「復讐しないのは男の恥」という文化さえあるのです。

その様な中では社会の安定的な成長が望めないのは当たり前です。そのために、様々な古代の律法では、その復讐を制限し、復讐の応酬を止めるための仕組みを含んでいました。モーセの律法においても、復讐がありうるものであるとして、その復讐から安全に身を守るための「逃れの町」の制度が制定されていました。

しかし、モーセの律法の中でも目を見張るのが、社会的弱者も含め、全員が共に持続的に富むことができる社会の実現を、高い倫理観と道徳観から制定しているところです。神がどなたでおられるのか、そしてイスラエルが何者であるのか、という点を根拠として、社会全体が共に持続的に富むことができる仕組みが記されているのです。それに対して、イスラエルは背を向けているのです。

彼らはすべての祭壇のかたわらに質に取った衣服を敷いて、その上に伏し、罰金をもって得た酒を、その神の家で飲む。

アモス2:8

偶像の神殿の祭壇の脇で、借金の質に預かった衣服をゴザの様に敷いて、課徴金(おそらく借金の返済が遅れたことに対する追徴金)で買った酒を飲んでいる様子が描かれています。神は、偶像礼拝と社会的不公平と、どちらをより強く憎まれているかというと、どちらも等しく憎まれているからです。偶像礼拝とは、造り主なる神を否定することであり、社会的不公平とは、造り主なる神がご自身に象って作られた、神の作品を否定することだからです。

つまり、偶像礼拝とは、全身全霊を持って神を愛しないことであり、社会的不公平とは、隣人を自分の様に愛しないことなのです。どちらも、深刻な律法違反なのです。

しかし、アモスに描かれている人は、大事にとっておいて、夕刻には返却しなければならない質物を、返す気が全くないかの様にゴザの様に敷いている様子が描かれています。この流れを、偶像や不道徳に気を取られて読んでしまい、社会的不公平に対して神がどれだけ怒っているかを十分に汲み取らない様な読み方をするクリスチャンも多いのではないでしょうか。

今日のクリスチャンにおいても、礼拝参加、献金、奉仕など、そういったことをしなければ主に祝福されないんだろうな、罰せられるんだろうな、という信仰生活を送られている方のいかに多いことでしょうか。それらのことは当然ですが、神が望まれているのは、私たちが罰せられない様にするにはどうすればいいのか、とビクビクして生きることではありません。

わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。

エペソ2:10

 

盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。

ヨハネ10:10

このテーマは来週に続きますが、最後に、一般論として、「平等」と「公平」の違いについて理解を共有したいと思います。この違いに関する不理解や神が何を望んでおられるのかに関する不理解が、旧約聖書の時代においても、イェスの時代においても、見当はずれな宗教観や正義感を産み出してきたのです。

喩えです。昔、町外れの地元の球場で野球の試合が行われるとき、入場券が買えない子供たちはよく塀越しに試合を観に行っていました。とある日、三人兄弟が試合を観に行こうとしたのですが、塀が少し高くなっています。一郎君は背が高いので、高くなった塀であっても球場内を見ることができます。次郎君はギリギリのところで見れません。三郎君は、全く見えません。そこに、りんご箱が3個転がっていることに気づきます。みんな一個ずつ取ってその上に立ちますが、一郎君はそもそもその必要がありません。次郎君はこれで塀越しに見えますが、三郎君はまだまだ届きません。これが「平等」です。そこで、一郎君は、そもそも不要な自分の箱を三郎君にあげて二個積みにしてあげます。これで、全員試合が見れます。これが「公平」です。神が私たちに何を望まれておられるのか、引き続きアモスから学びます。

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