八王子バプテスト教会通信

8月7日のメッセージ 2022年8月7日

忠実なしもべ

またわたしは、天からの声がこう言うのを聞いた、「書きしるせ、『今から後、主にあって死ぬ死人はさいわいである』」。御霊も言う、「しかり、彼らはその労苦を解かれて休み、そのわざは彼らについていく」。

黙示録14:13

 

当教会のカールトン名誉牧師が天に召されてから、ちょうど一年になります。そこで、いつものシリーズからちょっとお休みをいただいて、生涯を主に従って生きた、一人のしもべについて考えたいと思います。

 

私の幼少期〜青年期において、父は絶対的な存在でした。過度に厳しく、過度に正しい存在でした。「正しい」という点については、成長期の途中から少しずつ、間違えることもあるんだ、初めから間違っていることもあるんだ、ということに徐々に気がついて行きました。考えてみれば当たり前か、神様じゃなくて人間だから、と納得する様になりました。しかし、「厳しい」という点について考え方が変わるのには、さらに数年を要しました。

 

自分が完全に大人になって、大人同士付き合ってみると、こんなに面白くてこんなに優しい人だったということに驚きました。なぜ、子供の頃には厳しさしか見えなかったんだろう?今考えてみると、それだけ厳しくしつけられる要因が自分の方にたっぷりあっただけかもしれません。

 

その後も歳を重ねていく中で、父の欠点や不完全さを次々と目撃したり、それに巻き込まれることもありました。完璧でないとかいうレベルの話ではなくて、愚直な性格ゆえ、放っておけばうまくいくものでも勘違いして突っ込んでダメにしてしまったり、的外れな正義感で助けてくれようとしている人を去らせてしまったり。

 

日本に来たときには、日本全国にたくさんの新しい教会を立てることを夢見ていたそうですが、そういった経緯からひとつも立てることがないばかりか、30代で就任した教会も人を増やすことができず、最終的に天に召されたときには、教会は就任した当時よりも小さくなっていました。外交的な性格で人間が大好きだったので、多くの人に声をかけて教会に足をはこんでもらっていましたが、定着させることができず、歳月ばかりが過ぎて行きました。

 

しかし、父が倒れて入院、入所すると、私にとって思いがけないことが起こり始めました。様々な教会の方々、学校関係の方々、また長年連絡が途絶えていた知人や友人が父のところにやってきて、様々なものを差し入れてくださったり、励ましてくださったり、本当によくしてくださいました。なぜこれだけの方々がこの様にしてくださるのだろう?最初は不思議に思いましたが、来られる方の誰もが同じことをおっしゃるのです。

「あなたのお父さんには、たいへんお世話になったから。」

 

思い起こせば、父は昔から方々の教会や行事に出かけては手伝ったり奉仕したりしていました。父のことですから、いく先々で色々な人と衝突しながらだったのでしょうが。しかし、皆様があまりにも色々とよくしてくださるので、私は申し訳なくなってしまいました。そのことを口にしたところ、ある教会関係者の方に諭されました。

「私たちはカールトン先生に本当にお世話になったから、この様にしたくてやっているのです。あなたは諦めてそのことを受け入れてください。」

 

ここで思い出されるのは、イェスの喩え話の一場面です。

 

ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう。

ルカ16:8〜9

 

もちろん、父はあとでよくしてもらおうと、狡猾に悪巧みをしたわけではありません。その様なことが大嫌いでしたから。しかし、結果的にはその法則が働き、水の上に撒いたパンが、何年もあとになって見出された形になりました。そのときには報いを求めずに善行に励むことの大切さを思い知らされます。

 

さて、主のみもとに帰った父は、裁きの座の前に、どの様な判決を受けるのでしょうか?正直、私たちは細かいことはわかりません、何せ「後の者が先になり、先の者が後になる」と言われた方が行う裁判ですから。善行だけでは十分でないことは明らかです。

 

黙示録に、この裁判に関連して重要な情報があります。

 

また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。

黙示録20:11〜15

 

「いのちの書」に名前が書かれていることが肝心です。そして、「いのちの書」に名前を書いてもらうには?

 

すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。

ローマ10:9〜13

 

父は、14歳の時にこの救いを受け入れました。私も小学生の時にこの救いを受け入れました。だから、私の地上の時間が終わった時には、父が今いるあの安らぎに入れると確信しています。それはでは、この地上では「せいだしいそしめ」です。

 

わたしたちもこの世にあって彼のように生きているので、さばきの日に確信を持って立つことができる。そのことによって、愛がわたしたちに全うされているのである。

Iヨハネ4:17

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