み言葉を託された者:ヨナ(補足)
するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。
ルカ10:25〜37
今日は、先週までのヨナの話に収まりきらなかったポイントについて考えます。ヨナ書は、予言書の中でも最も古いもののひとつですが、私たち人間の性質を、ヨナの人格を通して痛烈に描き出している点では今日も全く色あせません。今日のこのポイントは、「正しさ」と「慈しみ」の兼ね合いです。
一般に、「正しさ」と「慈しみ」とは、相反する、バランスを取らなければならない両極端のものの様に捉えられがちです。「厳しい」と「緩い」の様に、また「当然の権利を主張する」と「当然の権利を主張しない」の様に。
神学校に行って進学を学ぶ神学生は、一年目で「神論」なるものを必修で勉強するのが一般的です。その「神論」の中で、「神の特性」というものを学びます。愛、裁き、慈しみ、などです。その中で、これらのものは私たちの視点からは矛盾するものの様に思えるが、実はこれらを全て兼ね備えて完全な神で在られる、ということを学びます。神学生としては、「とんでもない世界に入ってしまったな」と思わさせる一瞬です。ヨナも、ニネベに対する神の正義の裁きを期待していたのですが、悔い改めたニネベに対して、示されたのは神の慈愛でした。これがヨナにとっては受け入れることができず、地団駄(じだんだ)を踏みますが、神はヨナに対して慈しむことの大切さを諭して話は終わります。
今日の「良きサマリヤ人」の話の中でも、悪者扱いで登場する祭司とレビ人も、実は「悪いことをしている」という認識で描かれているわけではありません。なぜ彼らは山賊に襲われたユダヤ人を見て道の反対側を通って行ったのか?それは、彼が血を流しており、血に触れたならば、穢れた者として、清めの時間が終わるまで職務につくことができません。つまり、神に使えるものとしての仕事ができなくなるのです。
神様もそのくらいはわかってくれるのでは?当然そうですが、ことはそう単純ではないのです。祭司やレビ人の仕事は、当番制です。自分が急遽当番に入れないとなると、仲間や先輩に迷惑をかけることになってしまいます。祭司も、収入が原則ない代わりに、執り行った燔祭の一部を持ち帰ってそれが家の食卓に登ることになっていました。この人を助けてしまえば、自分の家族がお腹を空かせて1日を終わることになってしまうかもしれません。そう考えると、この祭司とレビ人は「悪い人」を象徴しているのではなく、「人の事情」「私たちの都合」を象徴しているのです。
そう考えると、サマリヤ人はその様なしがらみがないから、自由に助けられたわけか!というのはとてつもなく大きく間違った考え方です。サマリヤ人には「サマリヤ教」というものがあります。これは、ユダヤ教が数百年の間に変形して出来上がったもので、今日でもサマリヤ教の信徒がこの教えを守っています。制約などは、ユダヤ教と大きく変わりません。イェスのこの話を聞いていた人々はこのことを当然知っていました。唯一の違いは、祭司やレビ人が都合を最優先させたのに対して、似た立場のサマリヤ人は、「それどころではない、この人が大変だ」と、行動に出たのです。自費で宿に留めた点はその延長上で、最大のポイントは自分の都合を最優先させなかったことです。
さて、ことの発端は、とある律法学者がイェスにひっかけ問題を出したことにあります。「何をしたら永遠の生命が受けられるか」はユダヤ教の中で、「律法の中の至上命令は何か」という議論なのです。当時のユダヤ教の中には、「割礼派」「安息日派」「燔祭派」など色々あり、この律法学者はイェスをこの議論に巻き込んで対立軸を作ろうとしていたのです。それに対して、イェスは、「あなたは律法をどう読むか」と律法学者のプライドをヨイショします。彼は、自分自身がその論争に巻き込まれない様にと、一番無難な答えを選びます。
あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。
申命記6:5
あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である。
レビ記19:18
そう、その通り、その様にしなさい、との答えに、律法学者は慌てます。このままでは、イェスを落しめるつもりだったのが、イェスの好印象を人々に与えてしまいます。そこで、難題を持ち出します。「私の隣人とは、誰?」
これが、実はユダヤ教の中の大議論だったのです。とは言っても、党派や分派を作る様な激論ではなく、ある意味での楽しみ、娯楽に近い議論でした。タルムドはこの様な議論や見解を凝縮したものです。学があるユダヤ人男性たちは、三度の飯よりも、また酒や女性よりも、この様な議論を楽しんでいた様です。それに対して、イェスの喩え話を通しての返答は、簡潔にまとめると、「そんなの関係ない」です。
つまり、正しいことをするために人を慈しまなかったならば、そこには根本的な誤りがあるということです。私たちが正しいことをするにも、慈しむことに対する義務は全く減らされません。また、私たちが慈しむにしても、正しいことをすることに対する義務は全く減らされません。どちらも、完全な神の性質だからです。
それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
マタイ5:48
「完全な者」になるとは、罪を一切犯さず、永遠に支配する者になるということではありません。神の性質を、少しずつ、この身に現すことです。この点については、またいずれ触れることにしましょう。