八王子バプテスト教会通信

7月24日のメッセージ 2022年7月24日

み言葉を託された者:ヨナ(3)

ところがヨナはこれを非常に不快として、激しく怒り、主に祈って言った、「主よ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。それで主よ、どうぞ今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです」。主は言われた、「あなたの怒るのは、よいことであろうか」。そこでヨナは町から出て、町の東の方に座し、そこに自分のために一つの小屋を造り、町のなりゆきを見きわめようと、その下の日陰にすわっていた。

ヨナ書4:1〜5

 

ヨナは魚に吐き出された後にニネベに行き、そこで神の言葉を述べますが、その心は神の御心とは真逆のものでした。この点が、今日の私たちがヨナから学べる最大のポイントです。主はニネベに対して悔い改めと救いを期待していました。

 

わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。

エゼキエル33:11

 

それに対して、ヨナはニネベの人々に対して、軽蔑と復讐心しかありません。彼らの滅亡を願う気持ちで心がメラメラと燃えています。そもそも、ヨナはニネベの人々に対して神の言葉を述べ伝えたくはありませんでした。邪悪なカルチャーでしたし、非ユダヤ人(つまりユダヤ人からすれば低レベル)でした。その上に、ここで新しい情報もあります。ヨナには、主が彼らを許して救うかもしれない、という懸念もあったとのことです。これが全ての理由ではないでしょうが、一要素です。

 

そこで、ヨナはニネベの街を出て、やはり神がニネベを許さずに裁きを下されることに期待して、自分のために特等席を作ります。ボクシングで言えばリングサイドシート、相撲でいえば砂被り、ゴルフで言えばグリーンサイドです。なんとも稚拙で小市民的な行動と思われるかもしれませんが、このヨナから私たち全員学ばなければならないのです。主の許しの性質について。

 

主がニネベの罪を許されたということは、ニネベの罪は実はそこまで大きくはなかったということでしょうか?そういうことではありません。主がヨナを海中で死なせずに救ったのは、ヨナの背きの罪がそこまで大きくなかったということでしょうか?そういうことではありません。死罪に当たらないのど小さな罪など存在せず、神の許しをえられないほどに大きな罪など存在しないのです。ところが、私たち人間は、神の基準ではなく自分の基準に物事を落とし込んでいってしまうという、とてつもなく悪いクセがあるのです。

 

今回も、主がニネベをゆるそうとされていることを知り、ヨナは激怒します。そればかりか、「あいつらを許すくらいなから、いっそのこと私を殺してください」と申し出ます。そもそもニネベの人々は裁きの言葉すら聞かされずに滅ぼされるべきと思っていたのに、その上に彼らのために自分はひどい目に遭っています。魚に飲まれても助かったからいいじゃないか、というのは他人目線、その様な経験をしたならば誰でも生涯トラウマが残るでしょう。この時点でのヨナは、復讐のためのみに生きている様なものです。だから、主がニネベを滅ぼさないのであれば、いっそのこと殺してくれ、という心境になるのです。

 

それに対して、主の言葉は意外なものでした。

 

「ここって、怒るところか?」

 

ここで少しばかり本題から外れますが、私は昔から、聖書の言葉をこの様な日常の言葉に落とし込むことをすることで、様々な方々から批判を受けてきました。目上の先生方や信仰の先輩方から、「下品だ」「粗野だ」「品性がない」と言われてきました。英語の欽定訳についても同じことをして同じ様な批判を受けてきました。しかし、万民のための主の言葉を、一時の「品」というもので縛ってしまって良いのか?それこそ、サドカイの罪ではなかったのか?そもそも、イェスはその「品」を唱える様な人々を軽蔑し、粗野で荒い人々、娼婦や前科者と日常を共にしてきたことではないのか?その様な考えから、聖書の言葉を日常の言葉に落とし込んできました。話を戻しましょう。

 

主の立場からすると、「ここって、怒るところか?これだけの人々が許され、救われたんだぞ?」です。

 

一方、ヨナの心の中では、ここが怒りの正念場です。今、ヨナの心には2つの要素が強く働いています。

 

ひとつは、ヨナの正義感、価値観、立ち位置が否定されたことでした。もうひとつは、ヨナが望む応報が実現しなかったことです。そしてこれこそ、私たちの肉の父であるルシファーの罪であるのです。主の価値観、主の立場が中心に据えられていることに耐えられず、自分の価値観、自分の立場が自分の人生の中心になければならないという思いを持つ存在なのです。もちろん、日常的にルシファーの思いに従おうと意識的に考える人などいないでしょう。しかし、実際に無意識のうちにしてしまっていることは同じことなのです。

 

人間の価値観は様々ありますが、ほとんどの人にとって、自分の価値観がもっとも心地よい居場所です。ひとつの分かりやすい例が、車を運転している時の心境です。同じ道路には、様々な速度で走る車がいます。自分より速く走っている車を見たら「危ないなぁ」と思いますし、自分より遅い車にはイライラします。つまり、自分より遅い車は全部ノロマ、自分より速い車は全部スピード狂、というのが自然とある自分の立ち位置なのです。日本には昔からこの様な言葉があります。

「バカの大足、アホの小足。ちょうどいいのは俺の足。」

あくまでも自分を中心に据えようとする人間の心境を痛烈に捉えた言葉です。

 

この様な話を江戸小噺的に語れば笑いは絶えないのですが、主からするとこれは笑い事ではありません。私たちのこの様な思いが、主の働きを大きく阻害するからです。人の立場、許し、そして応報の問題を、イェスはひとつの例え話に託されました。

 

それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。

マタイ18:23〜35

 

まさに各ポイントをうまくまとめた例え話です。しかし、私たちはなぜこれが日常的にできていないのでしょうか?それは自分がどれだけ大きな罪と処罰から救われたか認識していない、何せ自分の立ち位置が中心にあるからなのです。

 

1980年代には、とあるCMから始まったフレーズが一時大流行しました。

「私が、スタンダード。」

 

非常にわかりやすいですね。しかも、居心地が良いです。しかも、これは主の儀を全うする姿勢ではありません。自分の罪にはぬるく、他人の罪には厳しくなってしまい、主のしもべとしてお役に立てる範囲が大幅に迫ってしますのです。

 

モーセの律法は、社会学的には「復讐法」とも呼ばれてきましたが、性質的には大きく違うものです。自分たちの社会から外れた者に対して復讐を働くという性質ではありません。むしろ、その様な罪のために悲しまなければならない、というものでした。

 

時には、「天が許しても俺は許さない」という様な言葉を聞きます。私たちには、口に出してこの様なことをいうことはないでしょうが、心の中には、自然と持っているのではないでしょうか?しかし、主には主のお考え、御心、そしてご計画があり、私はそれに立ち入ることができません。自分の価値観にしがみつくより、主の御心に従うことによって、ヨナの様に「怒りで頭がおかしくなりそうだ」という事態を避けることができるのです。

 

あなたのあだが倒れるとき楽しんではならない、彼のつまずくとき心に喜んではならない。主はそれを見て悪いこととし、その怒りを彼から転じられる。

箴言24:17〜18

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