八王子バプテスト教会通信

6月12日のメッセージ 2022年6月12日

み言葉を託された者:エリシャ(2)

さて預言者のともがらはエリシャに言った、「わたしたちがあなたと共に住んでいる所は狭くなりましたので、わたしたちをヨルダンに行かせ、そこからめいめい一本ずつ材木を取ってきて、わたしたちの住む場所を造らせてください」。エリシャは言った、「行きなさい」。時にそのひとりが、「どうぞあなたも、しもべらと一緒に行ってください」と言ったので、エリシャは「行きましょう」と答えた。そしてエリシャは彼らと一緒に行った。彼らはヨルダンへ行って木を切り倒したが、ひとりが材木を切り倒しているとき、おのの頭が水の中に落ちたので、彼は叫んで言った。「ああ、わが主よ。これは借りたものです」。神の人は言った、「それはどこに落ちたのか」。彼がその場所を知らせると、エリシャは一本の枝を切り落し、そこに投げ入れて、そのおのの頭を浮ばせ、「それを取りあげよ」と言ったので、その人は手を伸べてそれを取った。

II列王紀6:1〜7

 

天涯孤独のエリヤとは真逆に、エリシャは預言者仲間と共同生活、なかなか楽しそうです。住んでいるところが手狭になったため、みんなで新居建築のためにヨルダンのほとりに出かけます。ここで行われたのが、「泳ぐ斧頭」の奇跡です。金属の塊が水に浮くのです。しかし、エリシャの行った奇跡の数々は、また今後見るとして、今日はエリシャが社交的だったからと言って全てが楽しいばかりではなかった、という点を取り上げてみたいと思います。

 

ある日エリシャはシュネムへ行ったが、そこにひとりの裕福な婦人がいて、しきりに彼に食事をすすめたので、彼はそこを通るごとに、そこに寄って食事をした。その女は夫に言った、「いつもわたしたちの所を通るあの人は確かに神の聖なる人です。わたしたちは屋上に壁のある一つの小さいへやを造り、そこに寝台と机といすと燭台とを彼のために備えましょう。そうすれば彼がわたしたちの所に来るとき、そこに、はいることができます」。さて、ある日エリシャはそこにきて、そのへやにはいり、そこに休んだが、彼はそのしもべゲハジに「このシュネムの女を呼んできなさい」と言った。彼がその女を呼ぶと、彼女はきてエリシャの前に立ったので、エリシャはゲハジに言った、「彼女に言いなさい、『あなたはこんなにねんごろに、わたしたちのために心を用いられたが、あなたのためには何をしたらよいでしょうか。王または軍勢の長にあなたの事をよろしく頼むことをお望みですか』」。彼女は答えて言った、「わたしは自分の民のうちに住んでいます」。エリシャは言った、「それでは彼女のために何をしようか」。ゲハジは言った、「彼女には子供がなく、その夫は老いています」。するとエリシャが「彼女を呼びなさい」と言ったので、彼女を呼ぶと、来て戸口に立った。エリシャは言った、「来年の今ごろ、あなたはひとりの子を抱くでしょう」。彼女は言った、「いいえ、わが主よ、神の人よ、はしためを欺かないでください」。しかし女はついに身ごもって、エリシャが彼女に言ったように、次の年のそのころに子を産んだ。その子が成長して、ある日、刈入れびとの所へ出ていって、父のもとへ行ったが、父にむかって「頭が、頭が」と言ったので、父はしもべに「彼を母のもとへ背負っていきなさい」と言った。彼を背負って母のもとへ行くと、昼まで母のひざの上にすわっていたが、ついに死んだ。母は上がっていって、これを神の人の寝台の上に置き、戸を閉じて出てきた。そして夫を呼んで言った、「どうぞ、しもべひとりと、ろば一頭をわたしにかしてください。急いで神の人の所へ行って、また帰ってきます」。夫は言った、「どうしてきょう彼の所へ行こうとするのか。きょうは、ついたちでもなく、安息日でもない」。彼女は言った、「よろしいのです」。そして彼女はろばにくらを置いて、しもべに言った、「速く駆けさせなさい。わたしが命じる時でなければ、歩調をゆるめてはなりません」。こうして彼女は出発してカルメル山へ行き、神の人の所へ行った。神の人は彼女の近づいてくるのを見て、しもべゲハジに言った、「向こうから、あのシュネムの女が来る。すぐ走って行って、彼女を迎えて言いなさい、『あなたは無事ですか。あなたの夫は無事ですか。あなたの子供は無事ですか』」。彼女は答えた、「無事です」。ところが彼女は山にきて、神の人の所へくるとエリシャの足にすがりついた。ゲハジが彼女を追いのけようと近よった時、神の人は言った、「かまわずにおきなさい。彼女は心に苦しみがあるのだから。主はそれを隠して、まだわたしにお告げにならないのだ」。そこで彼女は言った、「わたしがあなたに子を求めましたか。わたしを欺かないでくださいと言ったではありませんか」。エリシャはゲハジに言った、「腰をひきからげ、わたしのつえを手に持って行きなさい。だれに会っても、あいさつしてはならない。またあなたにあいさつする者があっても、それに答えてはならない。わたしのつえを子供の顔の上に置きなさい」。子供の母は言った、「主は生きておられます。あなたも生きておられます。わたしはあなたを離れません」。そこでエリシャはついに立ちあがって彼女のあとについて行った。ゲハジは彼らの先に行って、つえを子供の顔の上に置いたが、なんの声もなく、生きかえったしるしもなかったので、帰ってきてエリシャに会い、彼に告げて「子供はまだ目をさましません」と言った。エリシャが家にはいって見ると、子供は死んで、寝台の上に横たわっていたので、彼ははいって戸を閉じ、彼らふたりだけ内にいて主に祈った。そしてエリシャが上がって子供の上に伏し、自分の口を子供の口の上に、自分の目を子供の目の上に、自分の両手を子供の両手の上にあて、その身を子供の上に伸ばしたとき、子供のからだは暖かになった。こうしてエリシャは再び起きあがって、家の中をあちらこちらと歩み、また上がって、その身を子供の上に伸ばすと、子供は七たびくしゃみをして目を開いた。エリシャはただちにゲハジを呼んで、「あのシュネムの女を呼べ」と言ったので、彼女を呼んだ。彼女がはいってくるとエリシャは言った、「あなたの子供をつれて行きなさい」。彼女ははいってきて、エリシャの足もとに伏し、地に身をかがめた。そしてその子供を取りあげて出ていった。

II列王紀4:8〜37

 

少し似た話が思い出されますね。エリヤがアハブから逃げて逃亡生活を送っていたときに、身を寄せていた家の子供が死んでしまう場面です。しかし、今回少し違うのは、エリシャがいなければその子は初めから存在していなかった、という点です。エリヤの場合は、飢饉の中で死のうとしていた親子と巡り会うのですが、今回は裕福な夫婦です。エリシャはことあるたびにお世話になり、なんとか恩返しをしたいと、子供を授かるように奇跡を起こします。我が子を抱くことをとうに諦めていた女性が子供に恵まれ、そしてその子の命が突如取り去られます。それでは、初めからその子がいない方が幸せだったのではないか、希望を与えられて突き落とされただけではないか、という気持ちになってしまうこともよくわかります。彼女もそのような気持ちを、夫にも誰にも見せず、エリシャに直にぶつけます。

 

北イスラエルの人々と実に60年にわたって寄り添って生きたエリシャの生涯を見ると、イェスの言われた、泣く人と共に泣き、笑う人と共に笑いなさい、を実践していたことがわかります。人と時間と空間を共有し、信頼も共有するということは、その人の喜怒哀楽も受け入れて共有し、同情することでもあります。そして、これがクリスチャンの生き方の根底にもあることが聖書からわかります。

 

わたしは前の手紙で、不品行な者たちと交際してはいけないと書いたが、それは、この世の不品行な者、貪欲な者、略奪をする者、偶像礼拝をする者などと全然交際してはいけないと、言ったのではない。もしそうだとしたら、あなたがたはこの世から出て行かねばならないことになる。

Iコリント5:9〜10

 

「この世から出ていかねばならないことになる」という表現は、世間のそのような人々と関わらないという結論が完全に間違っている、ということです。私たちは、そのような人を軽蔑したり見下したりせず、共に肩を並べて生活し、寄り添い、この世からの影響を受けずに、世の光、地の塩として影響を与えていくことが私たちの存在意義です。

 

そして、そのようにして寄り添って生きているときに、起こることは良いことばかりではありません。「禍福あざなえる縄のごとし」、つまり人生とは、良いことと悪いことが、よった縄のように常に一緒に存在するのです。その中で、人々の楽しい部分だけを共にして、難しい局面に差し掛かったら距離を置くとしたら、どうでしょうか?

 

英語には、fair-weather friendという言葉があります。fair weather とは、「晴天」の意味、つまり物事がうまくいっているときにはそこにいるが苦境が訪れるといつの間にかにいなくなる、「最低最悪の日和見(ひよりみ)野郎」のようなニュアンスで使われる語句です。

 

対義語として、rainy-weather friendという言葉もあります。普段からはあまり冴えなくても、いざというときには、誰よりも寄り添ってくれて、誰よりも頼りになる人のことです。当然、これが私たちのあるべき立場ですが、そこにはクリスチャン独特の苦悩もあります。というのは、苦境の中にいる人は、ついつい周囲に当たってしまう時があります。それは織り込み済みで私たちは人々に寄り添いますし、嵐がすぎた後はそのようにしてしまった人も「あの時はすまなかった」と言ってくれるものです。私たち自身が一時的な感情の揺らぎで攻撃を受けても、それを受け止めることができます。

 

しかし、その中において、そのような人は、私たちの信仰、私たちの神に対しても攻撃の矛先を向けることもあります。その人はよくわかっていないので、苦しい中からそのようにしてしまうのです。私も、「お前が牧師なら、私の人生をなんとかして見せろ」と言われたことがあります。そうなると、私を通して神の名を汚す器になってしまっているのではないか?と自責の念に駆られてしまうこともあります。

 

もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。

ヨハネ15:18〜19

 

イエスも、この世の底辺の人々に寄り添い、共に生き、愛し、そしてそのためにご自身の命を捧げられたのです。私たちも、自分の置かれたそれぞれの場所において、同様にすることが求められています。

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