み言葉を託された者:エリヤ(4)
さてエリヤはそこを去って行って、シャパテの子エリシャに会った。彼は十二くびきの牛を前に行かせ、自分は十二番目のくびきと共にいて耕していた。エリヤは彼のかたわらを通り過ぎて外套を彼の上にかけた。エリシャは牛を捨て、エリヤのあとに走ってきて言った、「わたしの父母に口づけさせてください。そして後あなたに従いましょう」。エリヤは彼に言った、「行ってきなさい。わたしはあなたに何をしましたか」。エリシャは彼を離れて帰り、ひとくびきの牛を取って殺し、牛のくびきを燃やしてその肉を煮、それを民に与えて食べさせ、立って行ってエリヤに従い、彼に仕えた。
I列王紀19:19〜21
この箇所は今日の内容には特に関係ありませんが、話の前後をつなぐために重要な箇所のため、取上げます。主に言われた通りに、エリヤはエリシャを自分の後継者とします。エリシャが畑で畑を耕していたところの横を通り、自分のマントをエリシャにかけます。後に、エリヤが主に取り去られたときに残された、あのマントです。個人的には、背後から、頭から投げ被せるイメージですが、実際どうだったのかはわかりません。ただ、エリシャはとっさにこの意味を理解し、エリヤを追いかけて、父母に別れの挨拶をする許可を求めます。エリヤの言葉は、確かに正確に翻訳されていますが、これではその場の雰囲気が全く読み取れません。大抵は、エリヤのこの言葉は、
「なんだ、騒々しい。好きにすればいいだろう。」
のように解釈されがちですが、エリシャはこの言葉に応じる行動をとるのです。その行動につなげるには、もう少し違う解釈が必要です。
「行きなさい。ただ、必ず戻ってくるように。私がいましたことの意味がわかるだろう?」
それに応えて、エリシャは親との挨拶もそこそこに、1くびきの牛を屠殺し、大宴会を村人全員のために開きます。1くびきの牛とは2頭の牛です。相当な量のご馳走になります。ここにはエリシャの両親も、いたでしょうし、もしかするとエリヤもいたのかもしれません。しかしここでエリシャがしたことは、「手厚くもてなす」ことが主旨ではありませんでした。エリヤに従った後に、元の生活に戻ろうにも戻れない状況にすることで、エリヤの言葉に応えたのです。使用人たちの牛とくびきは残さないとみんなが困ってしまいますが、自分の牛とくびきはなくしています。
ペテロたちはイェスに声をかけられると、船や漁具を捨てて従いましたが、弟子業を廃業しようとした3年後には、それはちゃんと実家に残っていました。それで、元に戻ろうという誘惑が起こったのです。エリシャは、それをここで絶っています。後には引けない状況を、自分で自分に課しているのです。
さて、今日の本題です。I列王紀21章をお読みください。
そして、この二人に対する預言はその通り成就されます。まず、シリアとの戦争のシーンからです。
しかし、ひとりの人が何心なく弓をひいて、イスラエルの王の胸当と草摺の間を射たので、彼はその戦車の御者に言った、「わたしは傷を受けた。戦車をめぐらして、わたしを戦場から運び出せ」。その日戦いは激しくなった。王は戦車の中にささえられて立ち、スリヤびとにむかっていたが、ついに、夕暮になって死んだ。傷の血は戦車の底に流れた。日の没するころ、軍勢の中に呼ばわる声がした、「めいめいその町へ、めいめいその国へ帰れ」。王は死んで、サマリヤへ携え行かれた。人々は王をサマリヤに葬った。またその戦車をサマリヤの池で洗ったが、犬がその血をなめた。また遊女がそこで身を洗った。主が言われた言葉のとおりである。アハブのそのほかの事績と、彼がしたすべての事と、その建てた象牙の家と、その建てたすべての町は、イスラエルの王の歴代志の書にしるされているではないか。こうしてアハブはその先祖と共に眠って、その子アハジヤが代って王となった。
I列王紀22:34〜40
そして、その後のイゼベルの最後です。
エヒウがエズレルにきた時、イゼベルはそれを聞いて、その目を塗り、髪を飾って窓から望み見たが、エヒウが門にはいってきたので、「主君を殺したジムリよ、無事ですか」と言った。するとエヒウは顔をあげて窓にむかい、「だれか、わたしに味方する者があるか。だれかあるか」と言うと、二、三人の宦官がエヒウを望み見たので、エヒウは「彼女を投げ落せ」と言った。彼らは彼女を投げ落したので、その血が壁と馬とにはねかかった。そして馬は彼女を踏みつけた。エヒウは内にはいって食い飲みし、そして言った、「あののろわれた女を見、彼女を葬りなさい。彼女は王の娘なのだ」。しかし彼らが彼女を葬ろうとして行って見ると、頭蓋骨と、足と、たなごころのほか何もなかったので、帰って、彼に告げると、彼は言った、「これは主が、そのしもべ、テシベびとエリヤによってお告げになった言葉である。すなわち『エズレルの地で犬がイゼベルの肉を食うであろう。イゼベルの死体はエズレルの地で、糞土のように野のおもてに捨てられて、だれも、これはイゼベルだ、と言うことができないであろう』」。
II列王紀9:30〜37
なんとも血生臭い話ですが、全体を通して感じるのは、実はアハブはそこまで悪いヤツではなった、全てイゼベルに振り回されて巻き込まれている、と言う印象です。確かに、イゼベルがいなければアハブはバアル崇拝をイスラエルの国教とするまではいかなかったかもしれないですし、ナボテに無実の罪を着せて殺すこともなかったでしょう。しかし、イゼベルを生涯の伴侶として迎え入れる判断をしたのもアハブですし、彼女の罪を止めずに野放しにしておく判断をしたのもアハブです。同罪です。私たちがこの一連の出来事から学べるのは、誰とどのように付き合うのかを決めることがどれだけ重要であるかと言うことです。
鉄は鉄をとぐ、そのように人はその友の顔をとぐ。
箴言27:17
交友関係においても、仕事関係においても、私たちは人から影響を受けます。中には私たちが選択できない人間関係もありますが、選択が可能な人間関係においては、私たちがそこからどのような影響を受けるかは私たちの選択責任の範疇です。そして、言うまでも無く、最も大きな印象を受けることが大きいのが、生涯のパートナーからです。
不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。
IIコリント6:14
それでは、一生結婚さえしなければ、相手から悪影響を受けることを避けることができるのでは?確かにそのような考え方がありますが、それでは「主の名をみだりにとなえてはならない」の律法を破ることがないように、「主の名を口にしない」手法を取り入れた過去のユダヤ人の過ちと同じです。その結果、彼らは主について語らなくなってしまったのです。また、そのような消極的な律法遵守、別の言い方をすれば積極的な罪のがれは、主の激しい怒りの的になります。なぜならば、それは律法の精神も本質も全て無視し、主に注目せず自分の無罪にのみ注文したものだからです。
そして何よりも、私たちの生涯の最大の任務を放棄することにもなります。
一つ神は、われわれのために命の霊を造り、これをささえられたではないか。彼は何を望まれるか。神を敬う子孫であるゆえ、あなたがたはみずから慎んで、その若い時の妻を裏切ってはならない。
マラキ2:15
神が私たちから何よりも求めておられるのは、神を敬う子孫をこの世に残すことです。中には、子供を残すことができない人もいますが、そのような人も自分のコミュニティーの中で子供たちに対して神を敬うようになるような影響を与えていくこともできます。そう、私たちはこの世から影響を受けているばかりだけではなく、この世に影響を与えることもするのです。自分が悪影響を受けないような人間関係を構築した上で、この世の中に対して良い影響を与えていくのが、私たちひとりびとりのあるべき姿です。
あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
マタイ5:13〜16