八王子バプテスト教会通信

3月13日のメッセージ 2022年3月13日

み言葉を託された者:ダビデ(7)

 

こうしてダビデはますます大いなる者となり、かつ万軍の神、主が彼と共におられた。ツロの王ヒラムはダビデに使者をつかわして、香柏および大工と石工を送った。彼らはダビデのために家を建てた。そしてダビデは主が自分を堅く立ててイスラエルの王とされたこと、主がその民イスラエルのためにその王国を興されたことを悟った。

IIサムエル5:10〜12

 

その後、主は預言者ナタンを通してダビデに語ります。

 

あなたが日が満ちて、先祖たちと共に眠る時、わたしはあなたの身から出る子を、あなたのあとに立てて、その王国を堅くするであろう。彼はわたしの名のために家を建てる。わたしは長くその国の位を堅くしよう。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう。もし彼が罪を犯すならば、わたしは人のつえと人の子のむちをもって彼を懲らす。しかしわたしはわたしのいつくしみを、わたしがあなたの前から除いたサウルから取り去ったように、彼からは取り去らない。あなたの家と王国はわたしの前に長く保つであろう。あなたの位は長く堅うせられる』」。ナタンはすべてこれらの言葉のように、またすべてこの幻のようにダビデに語った。その時ダビデ王は、はいって主の前に座して言った、「主なる神よ、わたしがだれ、わたしの家が何であるので、あなたはこれまでわたしを導かれたのですか。主なる神よ、これはなおあなたの目には小さい事です。主なる神よ、あなたはまたしもべの家の、はるか後の事を語って、きたるべき代々のことを示されました。ダビデはこの上なにをあなたに申しあげることができましょう。主なる神よ、あなたはしもべを知っておられるのです。あなたの約束のゆえに、またあなたの心に従って、あなたはこのもろもろの大いなる事を行い、しもべにそれを知らせられました。主なる神よ、あなたは偉大です。それは、われわれがすべて耳に聞いたところによれば、あなたのような者はなく、またあなたのほかに神はないからです。地のどの国民が、あなたの民イスラエルのようでありましょうか。これは神が行って、自分のためにあがなって民とし、自らの名をあげられたもの、また彼らのために大いなる恐るべきことをなし、その民の前から国びととその神々とを追い出されたものです。そしてあなたの民イスラエルを永遠にあなたの民として、自分のために、定められました。主よ、あなたは彼らの神となられたのです。主なる神よ、今あなたが、しもべとしもべの家とについて語られた言葉を長く堅うして、あなたの言われたとおりにしてください。そうすれば、あなたの名はとこしえにあがめられて、『万軍の主はイスラエルの神である』と言われ、あなたのしもべダビデの家は、あなたの前に堅く立つことができましょう。万軍の主、イスラエルの神よ、あなたはしもべに示して、『おまえのために家を建てよう』と言われました。それゆえ、しもべはこの祈をあなたにささげる勇気を得たのです。主なる神よ、あなたは神にましまし、あなたの言葉は真実です。あなたはこの良き事をしもべに約束されました。どうぞ今、しもべの家を祝福し、あなたの前に長くつづかせてくださるように。主なる神よ、あなたがそれを言われたのです。どうぞあなたの祝福によって、しもべの家がながく祝福されますように」。

IIサムエル7:12〜29

 

今日をもってダビデについてのシリーズは終わりで、来週からソロモンに移ります。しかし、今日の聖書のこの箇所の中に、ダビデがなぜ、どのように、主のみ心にかなった者と呼ばれたのかの根本が見て取れます。

 

「その時ダビデ王は、はいって主の前に座して言った」

というフレーズにヒントが隠されています。「主の前に座して」です。あまりピンとこないでしょうか?聖書を読んでいると、「座す」に、大まかに三つの用法があることがわかります。

 

ひとつは、絶望のうちに座り込んでしまうことです。

シオンの娘の長老たちは地に座して黙し、頭にちりをかぶり、身に荒布をまとった。

哀歌2:10

 

こうして七日七夜、彼と共に地に座していて、ひと言も彼に話しかける者がなかった。彼の苦しみの非常に大きいのを見たからである。

ヨブ2:13

 

また、権力の座につく意味もあります。

ミカヤは言った、「それゆえ主の言葉を聞きなさい。わたしは主がその玉座にすわり、天の万軍がそのかたわらに、右左に立っているのを見た

I列王紀22:19

 

信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。

ヘブル12:2

 

そして三つ目の用法は、同等に、また仲間として時間と空間を共有することを意味します。

そこで人々はあくる朝早く起きて燔祭をささげ、酬恩祭を供えた。民は座して食い飲みし、立って戯れた。

出エジプト32:6

 

むしろ、招かれた場合には、末座に行ってすわりなさい。そうすれば、招いてくれた人がきて、『友よ、上座の方へお進みください』と言うであろう。そのとき、あなたは席を共にするみんなの前で、面目をほどこすことになるであろう。

ルカ14:10

 

預言者ナタンの言葉を聞いたダビデがしたのは、神の前にぬかづくことでもなく、平伏することでもなく、五体投地することでもなく、「座す」ことでした。日本の文化でこの行為を最もわかりやすく表現するのが、時代劇の中で、戦国武将たちが円になって、片膝を立てて座って酒を酌み交わすシーンでしょう。同士、仲間の意味合いが非常に強いシーンです。

 

しかし、これは神にとっては不遜にならないでしょうか?確かに日本語の聖書ではダビデは敬語で喋っていますが、基本的にヘブライ語には日本語のような「敬語」はありません。相手にどのような称号をつけて呼ぶか、また自分のことをどのように呼称するかで、文脈が決まるのです。そのために、特に旧約聖書では「私は」と言わずに「我が主の召使は」というような回りくどい表現をしているのです。ダビデは神のことを絶対者として語っていますし、自分のことを「何者なので」のように言っていますが、それと同時に自分の名前を使って自分を指し、まさに同士のようなしゃべり口です。尚更無礼ではないでしょうか?

 

しかし、人間とそのような関係こそ、主が本質的に望ことであり、神の壮大なご計画の根底にあるのです。エデンの園での毎日の楽しい散歩の時間が人の罪のために失われて以降、神は人とのそのような関係を取り戻すために、長い時間をかけてご計画を進めてこられました。その中において、エノクのように本当に神と仲良くなった人をそのまま天に移すこともありました。

 

いうまでもなく、神は神です。王の王、主の主です。罪を罰し、悪を断たれます。しかし、それを最終的に望まれているのではなく、私たちと再び仲間として暮らせる世界を望まれているのです。

 

わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。

ヨハネ15:15

 

ダビデはまさに神とこのような関係を築いたのです。預言者ナタンの口を通して聞いた神の言葉に応える行為が、座して語ることだったのです。このような思いを持つ人物だったからこそ、ダビデは神のみ心にかなう者と呼ばれたのです。今、また世界の情勢が不安定になっています。いつの時代にもこのようなことはあります。私たちはこの世界の中で、自分の置かれた立場で、主のしもべとして出来ることをしますが、私たちの視線は、主が望む来るべき世に注がれているべきです。

 

また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。

黙示録21:3〜4

八王子バプテスト教会通信-過去の投稿リスト