八王子バプテスト教会通信

3月6日のメッセージ 2022年3月6日

み言葉を託された者:ダビデ(6)

 

主はナタンをダビデにつかわされたので、彼はダビデの所にきて言った、「ある町にふたりの人があって、ひとりは富み、ひとりは貧しかった。富んでいる人は非常に多くの羊と牛を持っていたが、貧しい人は自分が買った一頭の小さい雌の小羊のほかは何も持っていなかった。彼がそれを育てたので、その小羊は彼および彼の子供たちと共に成長し、彼の食物を食べ、彼のわんから飲み、彼のふところで寝て、彼にとっては娘のようであった。時に、ひとりの旅びとが、その富んでいる人のもとにきたが、自分の羊または牛のうちから一頭を取って、自分の所にきた旅びとのために調理することを惜しみ、その貧しい人の小羊を取って、これを自分の所にきた人のために調理した」。ダビデはその人の事をひじょうに怒ってナタンに言った、「主は生きておられる。この事をしたその人は死ぬべきである。かつその人はこの事をしたため、またあわれまなかったため、その小羊を四倍にして償わなければならない」。ナタンはダビデに言った、「あなたがその人です。イスラエルの神、主はこう仰せられる、『わたしはあなたに油を注いでイスラエルの王とし、あなたをサウルの手から救いだし、あなたに主人の家を与え、主人の妻たちをあなたのふところに与え、またイスラエルとユダの家をあなたに与えた。もし少なかったならば、わたしはもっと多くのものをあなたに増し加えたであろう。どうしてあなたは主の言葉を軽んじ、その目の前に悪事をおこなったのですか。あなたはつるぎをもってヘテびとウリヤを殺し、その妻をとって自分の妻とした。すなわちアンモンの人々のつるぎをもって彼を殺した。あなたがわたしを軽んじてヘテびとウリヤの妻をとり、自分の妻としたので、つるぎはいつまでもあなたの家を離れないであろう』。主はこう仰せられる、『見よ、わたしはあなたの家からあなたの上に災を起すであろう。わたしはあなたの目の前であなたの妻たちを取って、隣びとに与えるであろう。その人はこの太陽の前で妻たちと一緒に寝るであろう。あなたはひそかにそれをしたが、わたしは全イスラエルの前と、太陽の前にこの事をするのである』」。ダビデはナタンに言った、「わたしは主に罪をおかしました」。ナタンはダビデに言った、「主もまたあなたの罪を除かれました。あなたは死ぬことはないでしょう。しかしあなたはこの行いによって大いに主を侮ったので、あなたに生れる子供はかならず死ぬでしょう」。こうしてナタンは家に帰った。さて主は、ウリヤの妻がダビデに産んだ子を撃たれたので、病気になった。ダビデはその子のために神に嘆願した。すなわちダビデは断食して、へやにはいり終夜地に伏した。ダビデの家の長老たちは、彼のかたわらに立って彼を地から起そうとしたが、彼は起きようとはせず、また彼らと一緒に食事をしなかった。七日目にその子は死んだ。ダビデの家来たちはその子が死んだことをダビデに告げるのを恐れた。それは彼らが、「見よ、子のなお生きている間に、われわれが彼に語ったのに彼はその言葉を聞きいれなかった。どうして彼にその子の死んだことを告げることができようか。彼は自らを害するかも知れない」と思ったからである。しかしダビデは、家来たちが互にささやき合うのを見て、その子の死んだのを悟り、家来たちに言った、「子は死んだのか」。彼らは言った、「死なれました」。そこで、ダビデは地から起き上がり、身を洗い、油をぬり、その着物を替えて、主の家にはいって拝した。そののち自分の家に行き、求めて自分のために食物を備えさせて食べた。家来たちは彼に言った、「あなたのなさったこの事はなんでしょうか。あなたは子の生きている間はその子のために断食して泣かれました。しかし子が死ぬと、あなたは起きて食事をなさいました」。ダビデは言った、「子の生きている間に、わたしが断食して泣いたのは、『主がわたしをあわれんで、この子を生かしてくださるかも知れない』と思ったからです。しかし今は死んだので、わたしはどうして断食しなければならないでしょうか。わたしは再び彼をかえらせることができますか。わたしは彼の所に行くでしょうが、彼はわたしの所に帰ってこないでしょう」。ダビデは妻バテシバを慰め、彼女の所にはいって、彼女と共に寝たので、彼女は男の子を産んだ。ダビデはその名をソロモンと名づけた。主はこれを愛された。

IIサムエル12:1〜24

 

今回は、ダビデのバテシバに関する罪の一件です。内容は周知の通りですので詳細に入りませんが、ここで私たちは罪の性質と、一旦犯してしまった罪に対してどのように対処すべきか、またやってはいけない対処、などを知ることができます。

 

ことの発端は、女性の入浴の覗きという、単純なところから始まります。ダビデ王の宮殿は高さがあったため、周囲の住宅の女性たちが屋上で沐浴する姿が容易に目に入ってしまいます。ちょうど、今ではネットでいろいろなものが見れてしまうように。罪への入り口は、敷居が低いのです。ちなみに、ダビデのこの罪は、「女性の肌が見たい」という男性に普遍的な欲求から生まれたもので、女性からは軽蔑されがちですが、女性には女性の同様な弱さがありますので、油断は禁物です。

 

ダビデの行った覗きは、波及するような実害はなさそうですが、それはそれで終わらず、発展してしまうのが罪の性質です。気づいた頃には、ダビデが関係を持ったバテシバは妊娠しており、ダビデは自分の軍隊の新鋭兵士ウリアの妻を孕(みごも)らせていることを知りました。そこでダビデがしてしまったことは、罪というものの最大の特徴、上塗りです。事態を隠そうとして四苦八苦しますが、ことは大きくなるばかり、最後には忠実なウリアを意図的に戦死させることになっていまします。しかもそのことを側近に知られるため、生涯、弱みをつかまれる形になってしまいます。

 

ダビデはこのことをうまく隠したつもりでいましたが、預言者ナタンからの主の言葉で、主から隠された罪はないことを知らされます。そして、二人の間に生まれた子が死ぬこと、またダビデの家から剣が絶えることがないことも宣告されます。私たちの主もダビデの末裔、剣で刺し通されました。

 

ダビデは罪の赦しを主に求め、主は赦しを与えられます。詩篇の51篇をお読みください。

 

しかし、罪の赦しは与えられても、罪の因果までは消えず、罪を犯した者はこれを生涯追い続けなければなりません。なぜでしょうか?それは「罪の罪たる」ことのおぞましさを人類が忘れないようにするためのものです。この世で裁きを受けない罪は、あの世でさらに恐ろしい裁きを受けなければなりません。今、全世界でコロナウイルスによる死者、また経済活動の収縮により社会福祉が受けられずに苦しんでいる人々が大勢います。また、ウクライナでは突如祖国を追われたり、命を落としたりしている人々が大勢います。なぜ神はこのようなことを許されるのか?

 

それは、この世はまだ、罪の原則が働いている、呪いの元の万物の一部だからです。主が再臨し新しい天と新しい地が造られたならばもはやそのようなことはありませんが、今では罪の法則のもとに私たちはいます。そのために、「罪のおぞましさ」を知らせるためにこのような「痛み」が罪の副作用として残されているのです。私たちがあの世でさらにひどい痛みを味わうことがないように。

 

古代中国に、扁鵲(へんじゃく)という医者がいました(とされています)。東洋医学の祖とされています。ある日、時の権力者、文王に、質問されます。

「あなたは、三人兄弟医者だ。三人の中で、誰がいちばんの名医か。」

扁鵲は答えます。

「私は末っ子で、三人の中で一番下手です。」

文王は尋ねます。

「では、あなただけが有名で、あと二人は無名なのは、なぜだ?」

扁鵲はこう説明します。

「私は、人が病気になってしまってから治します。上の兄は、人が病気になり始めたときに治すので、長く苦しむことはありません。長男の兄は、人が病気になる前から治してしまうので、人はそのことに気づかず、世間からは感謝されずに、我が家の中だけで尊敬されています。」

東洋医学の原点とされています。

 

このように、本来伴うべき痛みがないところで原因が取り去られてしまったならば、人間には感謝すら生まれないのです。その痛みを取り去るのに、十字架で流された主の尊い血があるにしても。

 

しかしもうひとつ、ここで神の御業の不思議を最後に見ることができます。それは、罪のひどい悲劇の中からも、主は善を生むことができるのです。ここで誕生するのが、また御言葉を託された者、ソロモンです。その話はまた今度。

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