八王子バプテスト教会通信

2月27日のメッセージ 2022年2月27日

み言葉を託された者:ダビデ(5)

 

主に祝福された者は国を継ぎ、主にのろわれた者は断ち滅ぼされる。

人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。

たといその人が倒れても、全く打ち伏せられることはない、主がその手を助けささえられるからである。

わたしは、むかし年若かった時も、年老いた今も、正しい人が捨てられ、あるいはその子孫が食物を請いあるくのを見たことがない。

正しい人は常に寛大で、物を貸し与え、その子孫は祝福を得る。

悪をさけて、善を行え。そうすれば、あなたはとこしえに住むことができる。

主は公義を愛し、その聖徒を見捨てられないからである。正しい者はとこしえに助け守られる。しかし、悪しき者の子孫は断ち滅ぼされる。

正しい者は国を継ぎ、とこしえにその中に住むことができる。

正しい者の口は知恵を語り、その舌は公義を述べる。

その心には神のおきてがあり、その歩みはすべることがない。

悪しき者は正しい人をうかがい、これを殺そうとはかる。

主は正しい人を悪しき者の手にゆだねられない、またさばかれる時、これを罪に定められることはない。

主を待ち望め、その道を守れ。そうすれば、主はあなたを上げて、国を継がせられる。あなたは悪しき者の断ち滅ぼされるのを見るであろう。

わたしは悪しき者が勝ち誇って、レバノンの香柏のようにそびえたつのを見た。

しかし、わたしが通り過ぎると、見よ、彼はいなかった。わたしは彼を尋ねたけれども見つからなかった。

全き人に目をそそぎ、直き人を見よ。おだやかな人には子孫がある。

しかし罪を犯す者どもは共に滅ぼされ、悪しき者の子孫は断たれる。

正しい人の救は主から出る。主は彼らの悩みの時の避け所である。

詩篇37:23〜40

 

今日は、ダビデの正義感について考えたいと思います。私たちの周囲にも、正義感がとても強い人がいたりします。しかし、ときにはそのような人たちは、自己中心的な正義感であったり、意固地な思い込みによる正義感を持って動くので、周囲が困惑してしまうということもあるでしょう。ダビデの正義感の拠り所、その根拠が私たちにとって何よりも参考になります。

 

ダビデの正義感を考える上で、非常に大きなポイントになる点があります。それは、ダビデが完璧な人間でなかったことです。完璧な人間ならば不完全な私たちにとって見習うところはないでしょうが、ダビデは大失敗もしましたし、我が子を溺愛するあまり国を内戦に巻き込んでしまうという汚点も残しています。不完全だからこそ、私たちの模範になりうるのです。

 

ダビデの人生の中でその正義感が示された出来事がいくつかあります。その真っ先に思いつくのが、ゴリアテとの一件です。

 

ダビデはかたわらに立っている人々に言った、「このペリシテびとを殺し、イスラエルの恥をすすぐ人には、どうされるのですか。この割礼なきペリシテびとは何者なので、生ける神の軍をいどむのか」。

Iサムエル17:26

 

ダビデの兄たちを含め、軍の誰もがゴリアテを倒したいと思いはしましたが、「強いから無理」の分析の方が上回っていました。しかし、ダビデにとっては、こいつは主の名を汚しているから、許してはいけない、という正義感の方が上回ったのです。それで、国を救う行動に出ます。英語には、Where there’s a will, there’s a way. (意思あれば道は開ける)という諺があります。日本でも、「成せばなる」と言います。生きていく上での決意と行動力の組み合わせがいかに大切であるかを伝える言葉ですが、主に従う者にとっては、それ以上の意味があります。人間の世界での意味では、「限界と思われた人間の能力をその限界の先にまで伸ばす」という意味ですが、クリスチャンにとっては、人間の能力を遥かに超えた主の助けをいただくことでもあります。

 

その後、ダビデはサウルの嫉妬をの標的となり、逃亡者として身を隠すことになります。日夜命を狙われ、とてつもなく理不尽なその中においても、ダビデにはサウルを仕留めるチャンスが少なくとも二度巡ってきます。

 

サウルがペリシテびとを追うことをやめて帰ってきたとき、人々は彼に告げて言った、「ダビデはエンゲデの野にいます」。そこでサウルは、全イスラエルから選んだ三千の人を率い、ダビデとその従者たちとを捜すため、「やぎの岩」の前へ出かけた。途中、羊のおりの所にきたが、そこに、ほら穴があり、サウルは足をおおうために、その中にはいった。その時、ダビデとその従者たちは、ほら穴の奥にいた。ダビデの従者たちは彼に言った、「主があなたに告げて、『わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。あなたは自分の良いと思うことを彼にすることができる』と言われた日がきたのです」。そこでダビデは立って、ひそかに、サウルの上着のすそを切った。しかし後になって、ダビデはサウルの上着のすそを切ったことに、心の責めを感じた。ダビデは従者たちに言った、「主が油を注がれたわが君に、わたしがこの事をするのを主は禁じられる。彼は主が油を注がれた者であるから、彼に敵して、わたしの手をのべるのは良くない」。ダビデはこれらの言葉をもって従者たちを差し止め、サウルを撃つことを許さなかった。サウルは立って、ほら穴を去り、道を進んだ。 ダビデもまた、そのあとから立ち、ほら穴を出て、サウルのうしろから呼ばわって、「わが君、王よ」と言った。サウルがうしろをふり向いた時、ダビデは地にひれ伏して拝した。そしてダビデはサウルに言った、「どうして、あなたは『ダビデがあなたを害しようとしている』という人々の言葉を聞かれるのですか。あなたは、この日、自分の目で、主があなたをきょう、ほら穴の中でわたしの手に渡されたのをごらんになりました。人々はわたしにあなたを殺すことを勧めたのですが、わたしは殺しませんでした。『わが君は主が油を注がれた方であるから、これに敵して手をのべることはしない』とわたしは言いました。わが父よ、ごらんなさい。あなたの上着のすそは、わたしの手にあります。わたしがあなたの上着のすそを切り、しかも、あなたを殺さなかったことによって、あなたは、わたしの手に悪も、とがもないことを見て知られるでしょう。あなたはわたしの命を取ろうと、ねらっておられますが、わたしはあなたに対して罪をおかしたことはないのです。どうぞ主がわたしとあなたの間をさばかれますように。また主がわたしのために、あなたに報いられますように。しかし、わたしはあなたに手をくだすことをしないでしょう。昔から、ことわざに言っているように、『悪は悪人から出る』。しかし、わたしはあなたに手をくだすことをしないでしょう。イスラエルの王は、だれを追って出てこられたのですか。あなたは、だれを追っておられるのですか。死んだ犬を追っておられるのです。一匹の蚤を追っておられるのです。どうぞ主がさばきびととなって、わたしとあなたの間をさばき、かつ見て、わたしの訴えを聞き、わたしをあなたの手から救い出してくださるように」。ダビデがこれらの言葉をサウルに語り終ったとき、サウルは言った、「わが子ダビデよ、これは、あなたの声であるか」。そしてサウルは声をあげて泣いた。サウルはまたダビデに言った、「あなたはわたしよりも正しい。わたしがあなたに悪を報いたのに、あなたはわたしに善を報いる。きょう、あなたはいかに良くわたしをあつかったかを明らかにしました。すなわち主がわたしをあなたの手にわたされたのに、あなたはわたしを殺さなかったのです。人は敵に会ったとき、敵を無事に去らせるでしょうか。あなたが、きょう、わたしにした事のゆえに、どうぞ主があなたに良い報いを与えられるように。今わたしは、あなたがかならず王となることを知りました。またイスラエルの王国が、あなたの手によって堅く立つことを知りました。それゆえ、あなたはわたしのあとに、わたしの子孫を断たず、またわたしの父の家から、わたしの名を滅ぼし去らないと、いま主をさして、わたしに誓ってください」。そこでダビデはサウルに、そのように誓った。そしてサウルは家に帰り、ダビデとその従者たちは要害にのぼって行った。

Iサムエル24

 

こうしてダビデとアビシャイとが夜、民のところへ行ってみると、サウルは陣所のうちに身を横たえて寝ており、そのやりは枕もとに地に突きさしてあった。そしてアブネルと民らとはその周囲に寝ていた。アビシャイはダビデに言った、「神はきょう敵をあなたの手に渡されました。どうぞわたしに、彼のやりをもってひと突きで彼を地に刺しとおさせてください。ふたたび突くには及びません」。しかしダビデはアビシャイに言った、「彼を殺してはならない。主が油を注がれた者に向かって、手をのべ、罪を得ない者があろうか」。ダビデはまた言った、「主は生きておられる。主が彼を撃たれるであろう。あるいは彼の死ぬ日が来るであろう。あるいは戦いに下って行って滅びるであろう。主が油を注がれた者に向かって、わたしが手をのべることを主は禁じられる。しかし今、そのまくらもとにあるやりと水のびんを取りなさい。そしてわれわれは去ろう」。こうしてダビデはサウルの枕もとから、やりと水のびんを取って彼らは去ったが、だれもそれを見ず、だれも知らず、また、だれも目をさまさず、みな眠っていた。主が彼らを深く眠らされたからである。ダビデは向こう側に渡って行って、遠く離れて山の頂に立った。彼らの間の隔たりは大きかった。ダビデは民とネルの子アブネルに呼ばわって言った、「アブネルよ、あなたは答えないのか」。アブネルは答えて言った、「王を呼んでいるあなたはだれか」。ダビデはアブネルに言った、「あなたは男ではないか。イスラエルのうちに、あなたに及ぶ人があろうか。それであるのに、どうしてあなたは主君である王を守らなかったのか。民のひとりが、あなたの主君である王を殺そうとして、はいりこんだではないか。あなたがしたこの事は良くない。主は生きておられる。あなたがたは、まさに死に値する。主が油をそそがれた、あなたの主君を守らなかったからだ。いま王のやりがどこにあるか。その枕もとにあった水のびんがどこにあるかを見なさい」。サウルはダビデの声を聞きわけて言った、「わが子ダビデよ、これはあなたの声か」。ダビデは言った、「王、わが君よ、わたしの声です」。ダビデはまた言った、「わが君はどうしてしもべのあとを追われるのですか。わたしが何をしたのですか。わたしの手になんのわるいことがあるのですか。王、わが君よ、どうぞ、今しもべの言葉を聞いてください。もし主があなたを動かして、わたしの敵とされたのであれば、どうぞ主が供え物を受けて和らいでくださるように。もし、それが人であるならば、どうぞその人々が主の前にのろいを受けるように。彼らが『おまえは行って他の神々に仕えなさい』と言って、きょう、わたしを追い出し、主の嗣業にあずかることができないようにしたからです。それゆえ今、主の前を離れて、わたしの血が地に落ちることのないようにしてください。イスラエルの王は、人が山で、しゃこを追うように、わたしの命を取ろうとして出てこられたのです」。その時、サウルは言った、「わたしは罪を犯した。わが子ダビデよ、帰ってきてください。きょう、わたしの命があなたの目に尊く見られたゆえ、わたしは、もはやあなたに害を加えないであろう。わたしは愚かなことをして、非常なまちがいをした」。ダビデは答えた、「王のやりは、ここにあります。ひとりの若者に渡ってこさせ、これを持ちかえらせてください。主は人おのおのにその義と真実とに従って報いられます。主がきょう、あなたをわたしの手に渡されたのに、わたしは主が油を注がれた者に向かって、手をのべることをしなかったのです。きょう、わたしがあなたの命を重んじたように、どうぞ主がわたしの命を重んじて、もろもろの苦難から救い出してくださるように」。サウルはダビデに言った、「わが子ダビデよ、あなたはほむべきかな。あなたは多くの事をおこなって、それをなし遂げるであろう」。こうしてダビデはその道を行き、サウルは自分の所へ帰った。

Iサムエル26:7〜25

 

ここで見て取れるのは、ダビデの行動の源は、「私がどう思う」に依存するものではなく、「主は正しい」に依存するものでした。ダビデはサウルにとって怨念を持っていたわけではなく、自分の義理の父ともなったサウルとこのような関係になってしまったことが何よりも悲しかったのです。だからこそ、詩篇に見られるダビデの苦悩があったのです。

 

そして、この姿勢は最後まで変わることはありませんでした。

 

サウルが死んだ後、ダビデはアマレクびとを撃って帰り、ふつかの間チクラグにとどまっていたが、三日目となって、ひとりの人が、その着物を裂き、頭に土をかぶって、サウルの陣営からきた。そしてダビデのもとにきて、地に伏して拝した。ダビデは彼に言った、「あなたはどこからきたのか」。彼はダビデに言った、「わたしはイスラエルの陣営から、のがれてきたのです」。ダビデは彼に言った、「様子はどうであったか話しなさい」。彼は答えた、「民は戦いから逃げ、民の多くは倒れて死に、サウルとその子ヨナタンもまた死にました」。ダビデは自分と話している若者に言った、「あなたはサウルとその子ヨナタンが死んだのを、どうして知ったのか」。彼に話している若者は言った、「わたしは、はからずも、ギルボア山にいましたが、サウルはそのやりによりかかっており、戦車と騎兵とが彼に攻め寄ろうとしていました。その時、彼はうしろを振り向いてわたしを見、わたしを呼びましたので、『ここにいます』とわたしは答えました。彼は『おまえはだれか』と言いましたので、『アマレクびとです』と答えました。彼はまたわたしに言いました、『そばにきて殺してください。わたしは苦しみに耐えない。まだ命があるからです』。そこで、わたしはそのそばにいって彼を殺しました。彼がすでに倒れて、生きることのできないのを知ったからです。そしてわたしは彼の頭にあった冠と、腕につけていた腕輪とを取って、それをわが主のもとに携えてきたのです」。そのときダビデは自分の着物をつかんでそれを裂き、彼と共にいた人々も皆同じようにした。彼らはサウルのため、またその子ヨナタンのため、また主の民のため、またイスラエルの家のために悲しみ泣いて、夕暮まで食を断った。それは彼らがつるぎに倒れたからである。ダビデは自分と話していた若者に言った、「あなたはどこの人ですか」。彼は言った、「アマレクびとで、寄留の他国人の子です」。ダビデはまた彼に言った、「どうしてあなたは手を伸べて主の油を注がれた者を殺すことを恐れなかったのですか」。ダビデはひとりの若者を呼び、「近寄って彼を撃て」と言った。そこで彼を撃ったので死んだ。ダビデは彼に言った、「あなたの流した血の責めはあなたに帰する。あなたが自分の口から、『わたしは主の油を注がれた者を殺した』と言って、自身にむかって証拠を立てたからである」。

IIサムエル1:1〜16

 

実際は、戦いに敗れたサウルは人の手を借りずに自害したのですが、このアマレク人は、手柄をあげようとでっち上げの作り話をします。ダビデとサウルが敵対していることは誰もが知っていることですから、ダビデ野川からすればサウルを仕留めた人にはご褒美があるはずだろう、と踏んでいたのでしょう。「我が敵と敵対する者は我が友なり」と。ところが、ダビデの逆鱗に触れるのです。

 

このように、神の正しさに愚直に従う人は、世間からは理解されないことも多くあります。常に世間から理解されたいのであれば、主を第一にせず、世間を第一に据えなければなりません。しかし、最後の日には、私たちは世間の審判ではなく、主の審判の御座の前に立たなければなりません。そこでその審判に耐えるのは、立派な偉業を積んだ人ではなく、ダビデのように単純な信仰を持った人なのです。

 

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