み言葉を託された者:ダビデ(4)
「ダビデと軍の長たちはまたアサフ、ヘマンおよびエドトンの子らを勤めのために分かち、琴と、立琴と、シンバルをもって預言する者にした。その勤めをなした人々の数は次のとおりである。アサフの子たちはザックル、ヨセフ、ネタニヤ、アサレラであって、アサフの指揮のもとに王の命によって預言した者である。エドトンについては、エドトンの子たちはゲダリヤ、ゼリ、エサヤ、ハシャビヤ、マッタテヤの六人で、琴をもって主に感謝し、かつほめたたえて預言したその父エドトンの指揮の下にあった。ヘマンについては、ヘマンの子たちはブッキヤ、マッタニヤ、ウジエル、シブエル、エレモテ、ハナニヤ、ハナニ、エリアタ、ギダルテ、ロマムテ・エゼル、ヨシベカシャ、マロテ、ホテル、マハジオテである。これらは皆、神がご自身の約束にしたがって高くされた王の先見者ヘマンの子たちであった。神はヘマンに男の子十四人、女の子三人を与えられた。これらの者は皆その父の指揮の下にあって、主の宮で歌をうたい、シンバルと立琴と琴をもって神の宮の務をした。アサフ、エドトンおよびヘマンは王の命の下にあった。彼らおよび主に歌をうたうことのために訓練され、すべて熟練した兄弟たちの数は二百八十八人であった。彼らは小なる者も、大なる者も、教師も生徒も皆ひとしくその務のためにくじを引いた。」
I歴代志25:1〜8
これは、ダビデ王が賛美の任務に当たる楽隊を編成しているときの様子ですが、かなり気合が入っていることがわかります。ここで、「奉仕」と言わずに「任務」と言ったのは、彼らが全てこれで給料をもらっている「音楽のプロ」だったためです。そのために高度な訓練を受け、後継者を育成する仕組みにもなっていました。
ダビデは多彩な人物として知られていますが、特に演奏家として、詩人として、そして軍人として、達人に域に達していました。しかも、それぞれのジャンルにおいて、自分が上手であることに満足せず、大勢の同胞を特別な訓練と組織体系で同じようなレベルに引き上げていきました。それまでシロにあったイスラエルの都をエルサレムに遷都したダビデが、いかにイスラエルを愛し、最高のレベルまで引き上げたいと願っていたのかがひしひしと伝わってきます。そして、それを願っただけではなく、実現するための具体策を次々と進めます。有能なだけではなく、計画力と行動力のかたまりです。
ダビデがなぜこれだけ有能になったのかについて、すでに見てきました。時間を無駄にせず、コツコツと練習に励みました。しかも、常に主と交わっているため、常に主に導かれていました。詩篇の23篇は3000年経った今も世界中で人々に平安と勇気を与え続けていますが、ダビデのように歩んだ人でなければ決して書けない内容です。
自分の亡き後も継続する音楽の体系を築きますが、ダビデが体系化に取り組んだのは、音楽だけではありませんでした。ダビデのもとで、イスラエルの軍事力が一気に近代化しました。また今でも、ユダヤ人の間には、ダビデが開発して民に教えたとされる格闘術が伝わっています。これがどのようなものであったのかを物語る記述があります。サウルの軍隊とダビデの軍隊が池を挟んで対峙していたときの、休憩中の出来事です。
ゼルヤの子ヨアブとダビデの家来たちも出ていって、ギベオンの池のそばで彼らと出会い、一方は池のこちら側に、一方は池のあちら側にすわった。アブネルはヨアブに言った、「さあ、若者たちを立たせて、われわれの前で勝負をさせよう」。ヨアブは言った、「彼らを立たせよう」。こうしてサウルの子イシボセテとベニヤミンびととのために十二人、およびダビデの家来たち十二人を数えて出した。彼らは立って進み、おのおの相手の頭を捕え、つるぎを相手のわき腹に刺し、こうして彼らは共に倒れた。それゆえ、その所はヘルカテ・ハヅリムと呼ばれた。それはギベオンにある。その日、戦いはひじょうに激しく、アブネルとイスラエルの人々はダビデの家来たちの前に敗れた。
IIサムエル2:14〜17
当初、古株の郡のトップたちは、若者たちにチャンバラみたいなことをやらせて、娯楽にでもしようと思ったのでしょうが、そうはいきませんでした。ダビデが仕込んだ瞬殺技で、一瞬で終わってしまったのです。この瞬殺技とは、相手と組んだ瞬間に、髪の毛なり髭なりを掴んで頭を引っ張り、その瞬間に脇腹か首に剣を刺すというものでした。ダビデはどこでこのような末恐ろしい技を学んだのでしょうか?そのヒントが意外なところにありました。
しかしダビデはサウルに言った、「しもべは父の羊を飼っていたのですが、しし、あるいはくまがきて、群れの小羊を取った時、わたしはそのあとを追って、これを撃ち、小羊をその口から救いだしました。その獣がわたしにとびかかってきた時は、ひげをつかまえて、それを撃ち殺しました。
Iサムエル17:34〜35
まさにこれがダビデの原点です。自分よりもはるかに強い相手と戦うとき、どうすれば良いのか?通常に取っ組み合っていたら、必ず負けます。勝つには、瞬殺しかないのです。ダビデは、羊飼い少年の時代から、このような術を身につけていたのです。
私は若い頃、琉球拳法を習っていました。琉球拳法は、日本の近代空手のルーツですが、古代からあったわけではありません。琉球の人々は昔から、戦いを好まない、貿易で栄えた民族でした。しかし、江戸時代になると、状況を一変させる出来事が起こります。薩摩による侵略です。薩摩の兵は、大型の日本刀が特徴の「示現流」を使いますが、これは「一撃必殺」の強烈なものでした。それに対して、琉球の人々はほぼ武器を持たずに、農耕具で立ち向かう状況でした。少しでも分をよくするために、大陸から拳法を輸入したのが琉球拳法のベースになったのです。そして、「一撃必殺」に対して丸腰の状態から対抗するためには、その上を行く瞬殺が必要になります。私が所属していた流派の「型」には、砂かけ、目潰し、金的攻撃、鎖骨折りなど、武術とは到底思えないような技も含まれています。当時の「月刊空手道」誌に「えげつない」と書かれていたことも覚えています。当然、現在は実際には使われておらず、組み手でも禁止技ですが、その記憶を型という形で現世に伝えているのです。人々が何とか自分の家族を、家を、国を守ろうとした記憶を。ダビデが父エッサイの羊を守ったように。
やがて、ダビデ王のもとで、太平の世が訪れます。人々は安心して経済活動、カルチャーの発展、そして礼拝にも専念できるようになりました。ダビデが何をするにも愚直にコツコツと努力を重ねた結果が、多くの人々に繁栄をもたらし、今でも私たちの模範となっています。その様子を間近で見ていた人物がいました。人間の順当な努力がどのような実を結ぶのかをそうやって学んだのは、他でもないソロモンでした。
あなたのパンを水の上に投げよ、多くの日の後、あなたはそれを得るからである。あなたは一つの分を七つまた八つに分けよ、あなたは、どんな災が地に起るかを知らないからだ。雲がもし雨で満ちるならば、地にそれを注ぐ、また木がもし南か北に倒れるならば、その木は倒れた所に横たわる。風を警戒する者は種をまかない、雲を観測する者は刈ることをしない。あなたは、身ごもった女の胎の中で、どうして霊が骨にはいるかを知らない。そのようにあなたは、すべての事をなされる神のわざを知らない。朝のうちに種をまけ、夕まで手を休めてはならない。実るのは、これであるか、あれであるか、あるいは二つともに良いのであるか、あなたは知らないからである。
伝道の書11:1〜6
失敗を恐れず、意味のある行動を多く起こせば、それだけその努力が報われる機会も多く巡ってくるわけです。そして、それが主を畏れ主に従う心からなされるものであれば、それだけ祝福される機会も巡ってくるわけです。ダビデは決して完璧な人間ではありませんでしたが、それだからこそ私たちの模範になるのです。ダビデには反面教師的な要素もありますが、模範とすべき点が他にもあります。それはまた今後に。