八王子バプテスト教会通信

6月13日のメッセージ 2022年2月13日

み言葉を託された者:ダビデ(3)

 

これはダビデの最後の言葉である。

エッサイの子ダビデの託宣、

すなわち高く挙げられた人、

ヤコブの神に油を注がれた人、

イスラエルの良き歌びとの託宣。

「主の霊はわたしによって語る、

その言葉はわたしの舌の上にある。

イスラエルの神は語られた、

イスラエルの岩はわたしに言われた、

『人を正しく治める者、

神を恐れて、治める者は、

朝の光のように、

雲のない朝に、輝きでる太陽のように、

地に若草を芽ばえさせる雨のように人に臨む』。

まことに、わが家はそのように、神と共にあるではないか。それは、神が、よろず備わって確かなとこしえの契約をわたしと結ばれたからだ。どうして彼はわたしの救と願いを、皆なしとげられぬことがあろうか。

IIサムエル23:1〜5

 

いや、いきなりダビデの最終回というわけではありません。今日は、歴史的な展開の経緯から離れて、み言葉を託された者、「歌びとダビデ」を考えていきたいと思います。ダビデは、軍人であり国王でありならが、預言者でもありました。しかし、その預言者としてのあり方は、他に例がありません。

 

ほとんどの場合、預言者が起こされたならば、その預言者は神から預かった言葉を持って国王に告げるのですが、ダビデ本人が国王です。実際、ダビデの詩篇の多くは国王になる前に書かれたものと見られていますが、それはどれも通常の預言とはかけ離れたスタイルです。「悔い改めよ、神の罰から逃れたければ」というメッセージではありません。神への信頼を歌った23篇、罪の赦しを請い求める51篇、只々賛美に明け暮れる145篇など、喜怒哀楽を歌にぶつけた激情の詩人は、今日でも私の心を捉え、神に対する信仰の心は時空を超えて人類共通のものであることを語り続けています。

 

しかも、ソロモンの書のように難解であったりするものではなく、誰にでも親しめるものです。合わせる音楽も、古くからのものにこだわらず、新しい曲も書き下ろしました。今で言うならば、「みんなの音楽」、つまり「ポップ・ミュージック」だったのです。実際にダビデが書いたとされているのは詩篇の半分程度ですが、「詩篇スタイル」を確立して、国家事業として礼拝に組み込んだのがダビデであることに間違いはありません。そのために、「イスラエルの良き歌びと」と呼ばれたのです。「音楽家ダビデ」についてはまた別の機会に考えます。

 

確かに、詩篇はどの時代においても信仰心ある人々に愛されてきましたが、この中に果たして「預言」が含まれているのでしょうか?「預言」をしなければ「預言者」とは言えないのでは?当然の疑問です。詩篇22篇をお読みください。

 

多くの雄牛はわたしを取り巻き、

バシャンの強い雄牛はわたしを囲み、

かき裂き、ほえたけるししのように、

わたしにむかって口を開く。

わたしは水のように注ぎ出され、

わたしの骨はことごとくはずれ、

わたしの心臓は、ろうのように、胸のうちで溶けた。

わたしの力は陶器の破片のようにかわき、

わたしの舌はあごにつく。

あなたはわたしを死のちりに伏させられる。

まことに、犬はわたしをめぐり、

悪を行う者の群れがわたしを囲んで、

わたしの手と足を刺し貫いた。

わたしは自分の骨をことごとく数えることができる。

彼らは目をとめて、わたしを見る。

彼らは互にわたしの衣服を分け、

わたしの着物をくじ引にする。

詩篇22:12〜18

 

キリストの十字架を、史実の1000年前に見事に表現したこの詩は、一世紀にナザレのイェスの従者が捏造したという陰謀論も出てきかねないほどの正確さです。しかし、この内容は紀元前2世紀までに「七十人訳」としてギリシャ語に翻訳され、アレクサンドリア図書館に収蔵されていたのです。今の言い方で言えば、イェスが誕生するはるか前に「世界に対して公開された」ものだったのです。

 

これを書いていたときのダビデは、自分の血筋の末裔による人類救済を預言するものだとは、夢にも思わなかったでしょう。他の預言者たちも、自分がなぜこれを書いているのだろうか、不思議に思うところがあったでしょう。特にダニエルがそうでしたが、ダニエルに対しては主は「それはいいから、あなたはあなたの道を行きなさい」と、まとめさせます。

 

そして、ダビデの預言は新約聖書の意外なところで強力に用いられます。

 

ダビデはイエスについてこう言っている、『わたしは常に目の前に主を見た。主は、わたしが動かされないため、わたしの右にいて下さるからである。それゆえ、わたしの心は楽しみ、わたしの舌はよろこび歌った。わたしの肉体もまた、望みに生きるであろう。あなたは、わたしの魂を黄泉に捨ておくことをせず、あなたの聖者が朽ち果てるのを、お許しにならないであろう。あなたは、いのちの道をわたしに示し、み前にあって、わたしを喜びで満たして下さるであろう』。兄弟たちよ、族長ダビデについては、わたしはあなたがたにむかって大胆に言うことができる。彼は死んで葬られ、現にその墓が今日に至るまで、わたしたちの間に残っている。彼は預言者であって、『その子孫のひとりを王位につかせよう』と、神が堅く彼に誓われたことを認めていたので、キリストの復活をあらかじめ知って、『彼は黄泉に捨ておかれることがなく、またその肉体が朽ち果てることもない』と語ったのである。このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである。それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。ダビデが天に上ったのではない。彼自身こう言っている、『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足台にするまでは、わたしの右に座していなさい』。だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った。すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」。

伝道の書2:25〜39

 

このような用いられ方は、人間が計画できるはずもなく、時空を超えたところで全てを司っておられる主のみ手の中に全てがあることを物語っています。そして、用いられたのは立派な指導者だけではなく、貧民、女性、子供も主は用いてこられました。ダビデも自分の書き留めた言葉が1000年ものちにこういう用いられ方がされるとは思いもよらなかったでしょう。ただ、ダビデは主を愛し親しみ、その道に歩んでいるうちに、そのように用いられたのです。

 

そして、私たちの言動を通しても、主は働かれます。私たちの計画や予想とは関係ないところで、ご自身の働きのために用いられます。私たちに求められるのは、ダビデのように心からその道に歩むことで、その後は主に任せれば良いのです。

 

神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。わたしは知っている。人にはその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない。またすべての人が食い飲みし、そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である。わたしは知っている。すべて神がなさる事は永遠に変ることがなく、これに加えることも、これから取ることもできない。神がこのようにされるのは、人々が神の前に恐れをもつようになるためである。

伝道の書3:11〜14

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