八王子バプテスト教会通信

1月23日のメッセージ 2022年1月23日

み言葉を託された者:サムエル(6:エピローグ)

 

さてサムエルが死んだので、イスラエルの人々はみな集まって、彼のためにひじょうに悲しみ、ラマにあるその家に彼を葬った。そしてダビデは立ってパランの荒野に下って行った。

Iサムエル25:1

 

イスラエルの民に惜しまれながら、サムエルは静かに生涯を閉じました。聖書には正確な年齢は記録されていませんが、90代であったと推測されます。イスラエルの最後の裁き司としてイスラエルに与えた影響は非常に大きく、イスラエルの歴史の中で「サムエルの世」とか「サムエル時代」とか言われる様になるほどでした。しかしサムエル本人は、サウルに関しては自分が種を撒いた責任もあり、失意のうちに生涯を終わりました。

 

この後、サウルとダビデの対立が激化、波乱の世に向かって行きますが、サムエルはその様な心配から解き放たれ、パラダイスで安んじています。もう、この世の国政や人間関係の煩わしさから解き放たれて、只々安んじています。というところで話が終わるかと思いきや、とんでもないことが起こるのです。なんと、パラダイスにいるサムエルが、もう一度現場に呼び出されるのです。Iサムエル28章を読みましょう。

 

そのころ、ペリシテびとがイスラエルと戦おうとして、いくさのために軍勢を集めたので、アキシはダビデに言った、「あなたは、しかと承知してください。あなたとあなたの従者たちとは、わたしと共に出て、軍勢に加わらなければなりません」。ダビデはアキシに言った、「よろしい、あなたはしもべが何をするかを知られるでしょう」。アキシはダビデに言った、「よろしい、あなたを終身わたしの護衛の長としよう」。さてサムエルはすでに死んで、イスラエルのすべての人は彼のために悲しみ、その町ラマに葬った。また先にサウルは口寄せや占い師をその地から追放した。ペリシテびとが集まってきてシュネムに陣を取ったので、サウルはイスラエルのすべての人を集めて、ギルボアに陣を取った。サウルはペリシテびとの軍勢を見て恐れ、その心はいたくおののいた。そこでサウルは主に伺いをたてたが、主は夢によっても、ウリムによっても、預言者によっても彼に答えられなかった。サウルはしもべたちに言った、「わたしのために、口寄せの女を捜し出しなさい。わたしは行ってその女に尋ねよう」。しもべたちは彼に言った、「見よ、エンドルにひとりの口寄せがいます」。サウルは姿を変えてほかの着物をまとい、ふたりの従者を伴って行き、夜の間に、その女の所にきた。そしてサウルは言った、「わたしのために口寄せの術を行って、わたしがあなたに告げる人を呼び起してください」。女は彼に言った、「あなたはサウルがしたことをごぞんじでしょう。彼は口寄せや占い師をその国から断ち滅ぼしました。どうしてあなたは、わたしの命にわなをかけて、わたしを死なせようとするのですか」。サウルは主をさして彼女に誓って言った、「主は生きておられる。この事のためにあなたが罰を受けることはないでしょう」。女は言った、「あなたのためにだれを呼び起しましょうか」。サウルは言った、「サムエルを呼び起してください」。女はサムエルを見た時、大声で叫んだ。そしてその女はサウルに言った、「どうしてあなたはわたしを欺かれたのですか。あなたはサウルです」。王は彼女に言った、「恐れることはない。あなたには何が見えるのですか」。女はサウルに言った、「神のようなかたが地からのぼられるのが見えます」。サウルは彼女に言った、「その人はどんな様子をしていますか」。彼女は言った、「ひとりの老人がのぼってこられます。その人は上着をまとっておられます」。サウルはその人がサムエルであるのを知り、地にひれ伏して拝した。サムエルはサウルに言った、「なぜ、わたしを呼び起して、わたしを煩わすのか」。サウルは言った、「わたしは、ひじょうに悩んでいます。ペリシテびとがわたしに向かっていくさを起し、神はわたしを離れて、預言者によっても、夢によっても、もはやわたしに答えられないのです。それで、わたしのすべきことを知るために、あなたを呼びました」。サムエルは言った、「主があなたを離れて、あなたの敵となられたのに、どうしてあなたはわたしに問うのですか。主は、わたしによって語られたとおりにあなたに行われた。主は王国を、あなたの手から裂きはなして、あなたの隣人であるダビデに与えられた。あなたは主の声に聞き従わず、主の激しい怒りに従って、アマレクびとを撃ち滅ぼさなかったゆえに、主はこの事を、この日、あなたに行われたのである。主はまたイスラエルをも、あなたと共に、ペリシテびとの手に渡されるであろう。あすは、あなたもあなたの子らもわたしと一緒になるであろう。また主はイスラエルの軍勢をもペリシテびとの手に渡される」。そのときサウルは、ただちに、地に伸び、倒れ、サムエルの言葉のために、ひじょうに恐れ、またその力はうせてしまった。その一日一夜、食物をとっていなかったからである。女はサウルのもとにきて、彼のおののいているのを見て言った、「あなたのつかえめは、あなたの声に聞き従い、わたしの命をかけて、あなたの言われた言葉に従いました。それゆえ今あなたも、つかえめの声に聞き従い、一口のパンをあなたの前にそなえさせてください。あなたはそれをめしあがって力をつけ、道を行ってください」。ところがサウルは断って言った、「わたしは食べません」。しかし彼のしもべたちも、その女もしいてすすめたので、サウルはその言葉を聞きいれ、地から起きあがり、床の上にすわった。その女は家に肥えた子牛があったので、急いでそれをほふり、また麦粉をとり、こねて、種入れぬパンを焼き、サウルとそのしもべたちの前に持ってきたので、彼らは食べた。そして彼らは立ち上がって、その夜のうちに去った。

Iサムエル28章

 

これは、聖書の歴史の中でも、空前絶後の出来事です。確かに、旧約聖書でも新約聖書でも、死人が生き返ったケースがあります。過去に死んだはずのモーセとエリヤが栄光の姿でイェスと共に現れたこともあります。パウロやヨハネの様に、生身か幻かわからないものの、天に行って帰ってきた人もいます。私の祖父も、死の向こうの花畑を見て来ました。心肺停止後に蘇生術を行なって息を吹き返しましたが、「何故あんな美しいところから連れ戻したのか」と泣いて怒ったそうです。しかし、この事件は全く別ものです。パラダイスで安んじている魂を指名して呼び出したのです。聖書には他に全く例がありません。

 

そこで、この出来事をもう少し考えてみましょう。そもそも、死者の霊はこの世にはいないので、呼び出すにはあの世から呼び出して来なければいけません。そのために、サウルは「口寄せ」に依頼したのです。口寄せというのは、日本で言うところの「イタコ」の様な、霊媒師の一種です。本当に霊媒師が死者の霊と交流できるのか?ここで出て来たサムエルとやらは、実は悪霊ではないのか?という様々な疑問が出て来ます。

 

確かに、人間がパラダイスや黄泉にいる魂と交流ができるシステムが存在するとは、考えにくく、この口寄せも含めて霊媒師と言われる人々が悪霊を使って(悪霊に使われて?)術を行なっていると考えて自然でしょう。実際に死者の霊と交信しているわけではありません。だから、神は律法で口寄せを厳禁したのです。しかし、ポイントはこの先です。口寄せがサムエルを呼び出そうとしたところ、出て来たものを見て悲鳴をあげます。自分が普段からの術で行っていることと大きく違う現象が起きたのです。そして、聖書の記録も「サムエルの様なもの」とか「サムエルに似たもの」とせずに、サムエルであると断言しています。

 

このことから、この口寄せは、普段から悪霊の力を借りていたにしても、自分の目の前に展開されている状況が全く自分の手に負えない事態であることを悟り、パニックに陥ります。これは悪霊の仕業ではなく、特別に神がパラダイスからサムエルを「派遣」したという、非常に特殊な出来事だったのでしょう。一方、サウルはそれがサムエルであるとわかると、指示を請いますが、返答は生前の時と同じものでした。しかも、明日の戦いでサウルも息子たちも全員死亡するというのです。この言葉を聞いたサウルは、力なくその場に倒れてしまいます。

 

その様子を目にした口寄せは、サウルに声をかけます。

「私は命がけであなたの命令に従いました。今度は私が進言しますのでいう通りにしてください。食事をとって力をつけて、しっかりしてください!」

口寄せの方が、国王サウルよりもよっぽど人格形成ができていた様です。サウルの方はと言えば、食事を勧められても、「イヤだ、食べたくない」と駄々をこねるばかりで、最終的には家来たちにもなだめられてようやく食べ物を口にして帰路に着きます。これがサウルの最後の食事になったかは定かではありませんが、数時間後には戦場に倒れていました。

 

サウルは、この様なエンディングを避けることができなかったのでしょうか?他により良い道を選ぶことはできなかったのでしょうか?当然、できたはずです。アマレクとの戦いの失敗で神から退けられた後でも、これよりは良い選択肢がありました。アマレクとの戦いでは、サムエルを通して神からこう告げられています。

主はきょう、あなたからイスラエルの王国を裂き、もっと良いあなたの隣人に与えられた。

この「隣人」という言葉には、少し深い意味があります。サウルは、ベニヤミンの部族の出で、そのことが強烈な劣勢コンプレックスになっていましたが、地図を見ると、ベニヤミンの隣にユダの部族があります。隣人です。黙示録5:5では、イェスが「ユダの獅子、ダビデの末裔」と紹介されています。この流れは、すでに決まっていました。サウルは、神が王国をダビデに任せるつもりだったことが分かっていたのにも関わらず、そのことを受け入れられずにいました。

 

アマレクとの戦いの後、自分が決定的な失敗をしたと知ったサウルが取るべき行動はただひとつでした。それは、王位を返上し、ダビデに譲ることでした。ダビデは決してサウルの家に悪い様にするはずもありませんし、サウルの家を断つような事をしないと約束もしていました。しかし、それをすると、自分が一番偉くなくなり、人の下に立つことになってしまいます。今までは「サウル王」だったのは、「ただのサウルさん」になってしまうのです。これは、サウルにとっては心理的にも情緒的にも受け入れられないものでした。これを守ろうとする心理から、国民の生命や財産を危機に晒し、自らの家を滅ぼしてしまったのです。

 

一方、サムエルはと言えば、サウルのことを悔やんでいましたが、主はその点ではサムエルを責めていません。エレミヤ15:1では、主はサムエルをモーセと並べて称えています。確かにサムエルは子育てでしくじりましたが、その因果を背負いながらも必死に神に従って生きて行きました。私たちは仮に大きな失敗をしても、この世に生がある限りは、前進することが求められているのです。

 

そして、私たちがサウルから学べることがもうひとつあります。立場的には国王であったりと私たちとは共通点がなさそうですし、女性である姉妹たちから見れば、小心男の心情はなんとバカバカしいのだろうと思われるかもしれません。しかし、サウルの究極の失敗の原点は、私たち全員が犯す危険性があるものです。それは、最終的な判断基準が、自分の「気持」にあった点です。

 

悪魔は、私たちの身体にも魂にも手出しをすることができません。しかし、自由にアクセスすることができるものがあります。それは、私たちの気持ちと感情です。私たちが、物事の判断基準を御言葉ではなく気持ちや感情に置くならば、まるで自分の核心部分へのアクセスポートを悪魔に提供してしまっているようなものです。サムエルやサウルの事例は自分とは無関係であるなどと決して思ってはいけません。ましてや、自分の感情がサウルの感情よりも高尚であると、まかり間違っても思ってはいけません。サウルのように感情を通して悪魔の器にならないように、サムエルのように御言葉に従って生きるように、日々心がけましょう。

 

わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。

ガラテヤ5:16〜17

 

心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである」。

エレミヤ17:9〜10

 

自分の心を頼む者は愚かである、知恵をもって歩む者は救を得る。

箴言28:26

 

心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

箴言3:5〜6

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