み言葉を託された者:サムエル(5)
さて主はサムエルに言われた、「わたしがすでにサウルを捨てて、イスラエルの王位から退けたのに、あなたはいつまで彼のために悲しむのか。角に油を満たし、それをもって行きなさい。あなたをベツレヘムびとエッサイのもとにつかわします。わたしはその子たちのうちにひとりの王を捜し得たからである」。サムエルは言った、「どうしてわたしは行くことができましょう。サウルがそれを聞けば、わたしを殺すでしょう」。主は言われた、「一頭の子牛を引いていって、『主に犠牲をささげるためにきました』と言いなさい。そしてエッサイを犠牲の場所に呼びなさい。その時わたしはあなたのすることを示します。わたしがあなたに告げる人に油を注がなければならない」。サムエルは主が命じられたようにして、ベツレヘムへ行った。町の長老たちは、恐れながら出て、彼を迎え、「穏やかな事のためにこられたのですか」と言った。サムエルは言った、「穏やかな事のためです。わたしは主に犠牲をささげるためにきました。身をきよめて、犠牲の場所にわたしと共にきてください」。そしてサムエルはエッサイとその子たちをきよめて犠牲の場に招いた。彼らがきた時、サムエルはエリアブを見て、「自分の前にいるこの人こそ、主が油をそそがれる人だ」と思った。しかし主はサムエルに言われた、「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」。そこでエッサイはアビナダブを呼んでサムエルの前を通らせた。サムエルは言った、「主が選ばれたのはこの人でもない」。エッサイはシャンマを通らせたが、サムエルは言った、「主が選ばれたのはこの人でもない」。エッサイは七人の子にサムエルの前を通らせたが、サムエルはエッサイに言った、「主が選ばれたのはこの人たちではない」。サムエルはエッサイに言った、「あなたのむすこたちは皆ここにいますか」。彼は言った、「まだ末の子が残っていますが羊を飼っています」。サムエルはエッサイに言った、「人をやって彼を連れてきなさい。彼がここに来るまで、われわれは食卓につきません」。そこで人をやって彼をつれてきた。彼は血色のよい、目のきれいな、姿の美しい人であった。主は言われた、「立ってこれに油をそそげ。これがその人である」。サムエルは油の角をとって、その兄弟たちの中で、彼に油をそそいだ。この日からのち、主の霊は、はげしくダビデの上に臨んだ。そしてサムエルは立ってラマへ行った。さて主の霊はサウルを離れ、主から来る悪霊が彼を悩ました。
Iサムエル16:1〜14
自分が嫌々立てた王、サウルがその役を満たさず退けられたことについて心傷に浸っているサムエルに対して、主の言葉が臨みます。いつまで腐っているんだ、早速次の王に油を注ぐ用意をしなさい。しかし、サムエルは恐れます。そんなことがサウルの耳に入ったら、私は殺される、と。しかし、サウルは心底サムエルを慕っています。慕っている心の恩師をそう簡単に殺すということがあり得るのでしょうか?
十分にあり得ます。日本で言えば秀吉が慕っていた千利休を殺害し、三代目将軍家光が柳生宗矩から紹介され慕っていた沢庵宗彭(たくあんそうほう)を幽閉した様に、時の権力者が恩師を殺したり投獄したりする事例は歴史上にいくつもあります。
しかし、サムエルは主に告げられるままに支度をし、出かけていきます。サウルが不安定になり始めている中で、サムエルを迎えるベツレヘム側も神経質になっています。主に犠牲を捧げるためとの口実のもと、エッサイとその子達を清めたあと、サムエルはエリアブに目をつけ、「きっとこの人だ」と確信します。しかし、それはサムエルの、人間としての肉の想いによる勘違いでした。結局、清めた七人の男子の中に主が目を付けた人はおらず、羊の世話をしていたダビデを呼びに人を遣って連れてくることになりました。おそらく、着替える間もなく、身を清める間もなく、野良仕事の格好で兄弟たちに見守られながら末っ子ダビデが国王としての油の注ぎを受けます。そして、サムエルは隠居のためにラマに戻ります。
この後、サウルは徐々に人格崩壊を起こし、ダビデと時折対峙することになりますが、その流れはサムエルとは関係がないため、置いておきましょう。今日は、サムエルから重要なポイントを学びます。
サムエルは、生涯を通して真面目に主に使え、失敗という失敗はほとんど全くありませんでした。唯一あるならば、先に読んだ箇所での、自分の感覚でエリアブが主の選んだ人物だろう、と考えたことだけです。しかし、ここに重要なポイントがあります。他にも、聖書の中に、非常に真面目でほとんど失敗をしたことがない人物がもう一人います。バプテスマのヨハネです。イェスは彼についてこの様なことを言っています。
あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい。
マタイ11:11
バプテスマのヨハネも、小さいながらも失敗をしました。イェスに対して「私はその靴紐を解く価値もない」と言ったものの、イェスの日常生活が気になっていました。ヨハネとその弟子たちは、頻繁に断食したりの修行をしていました。エッセネ派の影響と見られています。しかし、イェスは「大食漢の大酒飲み」と言われるほど、よく食べ、よく飲みました。これに違和感を感じたヨハネは、人を遣わしてイェスに尋ねます。本当にあなたで大丈夫なのか?これに対して、イェスは答えます。
そのとき、イエスはさまざまの病苦と悪霊とに悩む人々をいやし、また多くの盲人を見えるようにしておられたが、答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしたことを、ヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、重い皮膚病にかかった人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者は、さいわいである」。
ルカ7:21〜23
ヨハネは、自分の価値観の中のみで何が正しいかを考えていた、いわゆる「真面目っ子」だったのです。イェスがなさろうとされていることに目を向けず、自分の真面目さに頼ってしまったのです。そして、肉による真面目さは、肉の行いを超えることをすることができません。だから、天の国で最も小さい物も、ヨハネより偉大なのです。
サムエルも、同様に「真面目っ子」でした。しかし、真面目は私たちを救うことができません。ある意味、ダビデはサムエルと対比されるところもあります。ダビデは激情の人間で、失敗もしました。しかし主が最も喜ぶのは、「失敗をしない人」ではなく、「失敗を悔い改め、失敗から成長する人」なのです。
次週はサムエルの人生のエピローグです。