年末礼拝メッセージ「助け合いの心」
あなたの神、主が賜わる地で、もしあなたの兄弟で貧しい者がひとりでも、町の内におるならば、その貧しい兄弟にむかって、心をかたくなにしてはならない。また手を閉じてはならない。必ず彼に手を開いて、その必要とする物を貸し与え、乏しいのを補わなければならない。あなたは心に邪念を起し、『第七年のゆるしの年が近づいた』と言って、貧しい兄弟に対し、物を惜しんで、何も与えないことのないように慎まなければならない。その人があなたを主に訴えるならば、あなたは罪を得るであろう。あなたは心から彼に与えなければならない。彼に与える時は惜しんではならない。あなたの神、主はこの事のために、あなたをすべての事業と、手のすべての働きにおいて祝福されるからである。貧しい者はいつまでも国のうちに絶えることがないから、わたしは命じて言う、『あなたは必ず国のうちにいるあなたの兄弟の乏しい者と、貧しい者とに、手を開かなければならない』。
申命記15:7〜11
年の瀬、日本では「歳末助け合い」募金の事業が行われています。しかし、これは日本独自のものではなく、「歳末助け合い」の原点は戦後GHQのもとで導入されたもので、YMCAや救世軍の様なキリスト教系の慈善事業の影響を大きく受けています。欧米でも、年末は教派に関係なく、多くの教会で年末の募金が行われます。
しかし、これも起源ではなく、古代ローマの時代から、この時期に貧しい人々に施しをする風習がありました。古代ローマの「サートゥルナーリア祭」の時ばかりは、路上生活者も思い切り食べたいだけ食べることができたそうです。
ところが、申命記で主はイスラエルに命じます。困っている人を見たなら、ためらわず、打算をせず、すぐに必要なものを与えて助けること。年末まで待つのではなく、常にその様にすること。そうするならば、必ず祝福されるから、ということでした。イスラエルにも、「仮庵の祭」という、暴飲暴食と馬鹿騒ぎでは「サートゥルナーリア祭」にも引けを取らない祭もありましたが、それは貧民救済の目的ではなく、貧民救済は日常の義務でした。年に一度訪れる特殊な義務ではなく。
聖書において「与える」ことには、ひとつの法則が見て取れます。
もしあなたの兄弟であるヘブルの男、またはヘブルの女が、あなたのところに売られてきて、六年仕えたならば、第七年には彼に自由を与えて去らせなければならない。彼に自由を与えて去らせる時は、から手で去らせてはならない。群れと、打ち場と、酒ぶねのうちから取って、惜しみなく彼に与えなければならない。すなわちあなたの神、主があなたを恵まれたように、彼に与えなければならない。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主があなたをあがない出された事を記憶しなければならない。このゆえにわたしは、きょう、この事を命じる。
申命記15:12〜15
あなたの神、主が賜わる祝福にしたがい、おのおの力に応じて、ささげ物をしなければならない。
申命記16:17
あなたはあなたの神、主を覚えなければならない。主はあなたの先祖たちに誓われた契約を今日のように行うために、あなたに富を得る力を与えられるからである。
申命記8:18
そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。
マタイ18:32〜35
聖書の中で、施しをするにも赦すにも、ひとつの大原則があります。それは、私たちがすでにそれを超える恵みと赦しを受けているということです。与えること、許すことは、自分が恵まれていること、許されていることに対する感謝の現れです。与えない、赦さないという心であれば、それは神の恵みと赦しに対する感謝がないということなので、神も今後は恵みも赦しも与えない、ということになってしまうのかもしれません。
これは、「巡り巡ってくる」というものとは違いますが、「巡り巡ってくる」原理も神の摂理にもとにあると聖書は教えています。「巡り巡ってくる」と言えば、
あなたのパンを水の上に投げよ、多くの日の後、あなたはそれを得るからである。
伝道の書11:1
これは世界に広く存在する考え方で、仏教の「業(カルマ)」にも似ていると言われます。英語の諺でも、What goes around comes around. (行き巡るものは、戻り巡る)というものがあります。これら様々な文明・文化における教えは、人間がこの原則を観測した結果生まれたものです。しかし、聖書ではこの原則を司っておられるお方との関わり合い方について、この様に教えています。
貧しい者をあわれむ者は主に貸すのだ、その施しは主が償われる。
箴言19:17
巡り巡ってくることを担保されておられるのは、主に他ならないということです。
施しをすることの大切さ、困っている人を助けることの大切さを教える聖書の箇所はあまりにも多く、ここで挙げ始めたらキリがありません。
しかし、これ一本槍の生き方をするわけにもいきませんし、教会もそればかりをするわけにはいきません。なぜなら、私たちは救いのみ言葉を述べ伝えるという至上命令を受けているからです。
ところが、日本でもアメリカでも、一部の教会は福音伝道のみに傾倒し、一部の教会は福祉活動のみに傾倒します。それぞれの言い分もありますが、ここでの深入りは避けましょう。ただ、貧民救済と福音伝道のどちらが大切なのかという考え方があること自体、深刻な問題です。なぜならば、主はその両方を私たちに命じているからです。
人間としてこの世に生を受けた者としては慈しみあわれむことを、新しい生命を受けた神の子としては御国の福音を述べ伝えることを、命じられています。どちらが大切なのかというのは、まるで人体にとって空気と水とどちらが大切なのか、と言っている様な者です。どちらがなくても、長くは本来の存在でいることはできません。
確かに、私たちは慈善事業をしたり施しをしたりすることによって救われることはありません。私たちが慈善事業をしたり施しをしたりするのは、救われるためではなく、初めから神がそれを要求されておられるからです。救いに関係があろうとなかろうと、初めからそれを求めておられるからです。
あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。
エペソ2:8〜10
この様に、私たちの救いは、私たちの行いとは関係なく、信仰によって得られるものです。一方、私たちの良い行いは、救いのためではなく、神が私たちを初めから良い行いをして日々を過ごす様に私たちをデザイン設計してくださったのでするものです。混同してはいけません。
最後に、私たちが気をつけなければならない点を、仲間の失敗からお話ししたいと思います。旧ソ連の崩壊から30年経ちます。当時は元加盟国の中に、大変な経済混乱が起こり、貧困に直面する人々も少なくありませんでした。世界中から様々な支援団体が困窮に直面している人々の救済のために現地入りしました。アメリカからも、多くの団体が行きました。その中には、福音派の団体もいくつかありました。ところが、その福音派の団体の一部は、支援の提供の条件として、その団体が唱える福音の信仰を受け入れることを要求したのです。実質的に、布教のために、支援を必要としている人々を人質に取った形です。これが現地でも国際的にも大変な不評を呼びます。結局、ロシアなどの国では、ロシア正教以外の活動がほぼ禁止され、支援団体は実質的に無宗教に近い形で活動しなければならなくなってしまいました。キリストの福音の顔に泥を塗ってしまったのです。
私たちは、時が良くても悪くても福音を述べ伝えますが、施しに関しては、イェスの言う「右手のしていることを左手に知られない」という心でする必要があります。
これから年末、福音を述べ伝える機会も、施しをする機会も、日々あるはずです。限られた時間、機会を逸することがないようにしましょう。