み言葉を託された者:モーセ(9)
モーセはモアブの平野からネボ山に登り、エリコの向かいのピスガの頂へ行った。そこで主は彼にギレアデの全地をダンまで示し、ナフタリの全部、エフライムとマナセの地およびユダの全地を西の海まで示し、ネゲブと低地、すなわち、しゅろの町エリコの谷をゾアルまで示された。そして主は彼に言われた、「わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに、これをあなたの子孫に与えると言って誓った地はこれである。わたしはこれをあなたの目に見せるが、あなたはそこへ渡って行くことはできない」。こうして主のしもべモーセは主の言葉のとおりにモアブの地で死んだ。主は彼をベテペオルに対するモアブの地の谷に葬られたが、今日までその墓を知る人はない。モーセは死んだ時、百二十歳であったが、目はかすまず、気力は衰えていなかった。イスラエルの人々はモアブの平野で三十日の間モーセのために泣いた。そしてモーセのために泣き悲しむ日はついに終った。ヌンの子ヨシュアは知恵の霊に満ちた人であった。モーセが彼の上に手を置いたからである。イスラエルの人々は彼に聞き従い、主がモーセに命じられたとおりにおこなった。イスラエルには、こののちモーセのような預言者は起らなかった。モーセは主が顔を合わせて知られた者であった。主はエジプトの地で彼をパロとそのすべての家来およびその全地につかわして、もろもろのしるしと不思議を行わせられた。モーセはイスラエルのすべての人の前で大いなる力をあらわし、大いなる恐るべき事をおこなった。
申命記34章
今週で、モーセとお別れです。今回の勉強で、今まであまり考えることがなかったモーセの人柄と人間像に深く触れることができたのではないかと思います。しかしそれは、私たちに示された新約における生き方と離れるものではなく、むしろ一致する生き方が示されたのではないかと思います。
今週の内容としては、理想的には申命記を通読、それが難しい場合には申命記の6章と30〜34章をお読みください。「申命記」のタイトルは、「第二の律法」、つまり「律法の伝え直し」という意味があります。
モーセはここで、今から約束された地に入ろうとするイスラエルに対し、神の戒めをまとめて伝え、自分はそこに入ることはできないこと、偶像礼拝に陥ってはならないことなどを伝えます。その後モーセは民を離れ、ピスガ山に登り、自分がこれまで40年間目指してきた約束の地の全貌を示されます。モーセはそこで死に、主によって葬られたと記録されています。神自ら埋葬したと記録されている唯一の人物です。
モーセがこれだけ真心を尽くして使えたのに、最終的には約束された地に入れなかった、眺めるだけで踏むことを許されなかったのは、とてつもなく残念だった、という見方もあります。しかし、そこも注意しなければなりません。というのは、約束されたカナンの地も、象徴的な安息です。モーセは、その象徴的な安息には入れませんでしたが、その直後に、その象徴的な安息が示す本当の安息に入りました。一方、象徴的な安息に入りながらも、偶像礼拝などに陥り、本当の安息から漏れた人が大勢いたようです。私たちが目指すべきはどこかと問われた場合に、回答は容易に出るように思えます。
今日も、聖地イエスラエルへの巡礼が行われています。私の手元にも、「聖地巡礼旅行」の案内のDMが時々届きます。一人70万円程度で、二週間をかけてイスラエルと周囲の、聖書に関係のある地域を旅できるというものです。しかし、これも気をつけなければならない点があります。というのは、地上のイスラエルそのものも、「永遠の都」ではなく、「その出てきたところ」(ヘブル11:15)に過ぎないのです。
神自らがモーセを埋葬され、墓標も立てなかったのは、モーセが神格化され崇拝されないようにするための措置であったの考えられます。今日の私たちも、間違ってもそのような崇拝、すなわち聖地崇拝などの過ちに陥ってはなりません。モーセが他の人たちと一緒に約束された地に入れなかったのは、本当の安息に入れないことに対する警告です。モーセは象徴的な約束日に入らず、本当の安息の直接入りました。しかし、本当の安息に入ることができないとなれば、その残念さはいかに大きいことでしょう。
こうして、モーセの役割は終わりました。その働きを通して、モーセは「救世主」のようにも言われますが、モーセは決して救世主ではなく、救世主の「忠実なしもべ」だったのです。その息子もその孫もその仕事に就くことはありませんでした。しかし、その後継者ヨシュアの名は、「イェス」の名と同じで、「救う者」です。ただ、ヨシュアもモーセ同様、完璧ではなく、不完全な人間でした。その話はまた来週。