八王子バプテスト教会通信

8月15日のメッセージ 2021年8月15日

「慰めの主、慰めの事実」

 

兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。

Iテサロニケ4:13〜18

 

今日は、火葬式に合わせて、主の慰めについて考えたいと思います。私たちが、親しい人と長い間会えなくなると、とてつもなく寂しい気持ちになります。会えない間は、早く会いたい、と日々苦悶するかもしれません。しかし、それは絶望ではありません。孤独かもしれませんが、絶望ではありません。また会えることを知っているので、いかに強烈な心寂しさであっても、絶望ではありません。

 

コロナが始まって以来、私はホームで父に面会できていません。唯一会えたのが、数回病院に通院したときの付き添いでした。会えずに寂しい思いをしましたが、絶望はありません。なぜならば、また会えることを知っているのですから。寂しさでいっぱいでも、絶望はありません。その父の火葬式を今日、執り行います。寂しい限りですが、絶望はありません。また会えることを知っているのですから。

 

これがキリスト者の強さです。強い精神力に支えられているのでもなく、強い気持ちに支えられているのでもなく、狂気じみた信仰に支えられているのでもなく、事実に支えられているのです。これが、キリスト教と、「宗教」と言われるものとの決定的な違いです。「宗教」とは、人間によって作られたものであり、人間の事情によって様々と変わります。一方、聖書には、現実に存在する神と、現実に存在する人間との現実の関係が述べられています。綺麗事もなければ、痛い気持ちをオブラートで包む様な言葉もありません。そこに述べられているのは、私たちが抱く希望の根拠です。

 

亡くなった愛するものがどういう状況にあるのか、私たちは覗き見て窺い知ることはできません。この世の宗教は、これを利用して、遺族を色々と動かしてきました。カトリックでは、「彼は今、煉獄にいます。あなたがたくさん献金すれば、彼は煉獄から天国にうつされます。」という様ないいかげんなことを言ってお金を集めたすることもあります。これは人間の心情のひどい悪用ですが、まだ遺族には希望が残ります。日本の今の宗教は、悪用こそないもの、もっと残酷なものです。というのは、亡くなった愛する人が、今天国にいるのか、黄泉にいるのか、生まれ変わったのか、古代神道の教えの様に亡骸につなぎ止められて祟りをなすのか、全く方向性もなく、各自、自分の心の中で何かしら納得できるものを見つけなければならないのです。

 

Iテサロニケは、パウロが書いた最初の書簡でした。その中で、「兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。」と諭しています。つまり、その様な無知、すなわち正しい知識を持たないことが、無意味な悲しみを生むのだということです。

 

さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう。もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。

Iコリント15:12〜20

 

これこそが、神の言葉、そして福音の最大の力です。その力とは、それが事実であり現実であるということです。人間の宗教的な感覚や感情や願望には一切影響されず、事実であり現実なのです。死というものを通して一時的に別れた親しい人とまたあの世で再開するというのは、決して願望ではなく、明日も起きて会社に行く、学校に行くというくらい現実のことなのです。

 

しかし、コリントの教会には、キリストを信じていると言いながらも、キリストのよみがえりに希望を抱かず、世間一般の人々と同じ様な生活をしている人々がいました。パウロは彼らを厳しく非難しています。

 

兄弟たちよ。わたしたちの主キリスト・イエスにあって、わたしがあなたがたにつき持っている誇にかけて言うが、わたしは日々死んでいるのである。もし、わたしが人間の考えによってエペソで獣と戦ったとすれば、それはなんの役に立つのか。もし死人がよみがえらないのなら、「わたしたちは飲み食いしようではないか。あすもわからぬいのちなのだ」。まちがってはいけない。「悪い交わりは、良いならわしをそこなう」。目ざめて身を正し、罪を犯さないようにしなさい。あなたがたのうちには、神について無知な人々がいる。あなたがたをはずかしめるために、わたしはこう言うのだ。

Iコリント15:31〜34

 

そう、私たちは神の言葉が私たちの心に響くとか響かないとかその様なものとして捉えるのではなく、私たちの日常の生活の一部として、生きていることの現実として受け止めていなければ、結局は希望を持たないこの世の人々と同等の言動に終始してしまうのです。そしてそれらの言動のために、私たちは裁きの座の前で言い開きをしなければなりません。これも事実であり、現実なのです。

 

逆に、私たちがよみがえりの福音を事実のこととして受け止めているならば、私たちの日常の言動は必ず、希望を持たないこの世の人々の言動とは違うものになります。それは一部の人々からは敬遠されるものかもしれませんが、私たちが信じているものがこの世の宗教の考え方とは同程度のものではないことを強力にあかしすることになるでしょう。そして福音が事実であるということはもうひとつ、私たちの行動を促す側面を持っています。

 

彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。

ヨハネ3:18

 

キリストを救い主として受け入れていない人の中には、大変「いい人」もたくさんいますが、「いい人」でいることは永遠の命とあの世における再会には全くつながりません。すべての人間は神の前に罪人であり、無償で差し出されている罪の許しを受けなければ、永遠の死が待っています。この警告を鳴らすために、カールトン牧師が祖国を捨てて来日し、その生涯を宣教に捧げたのです。そのメッセージをを受けた私たちが、その警鐘を鳴らすことをやめたら、それが一体何になるというのでしょうか?

 

キリストの福音は、確かに歴史的には不人気なものでした。その最大の理由は、それが事実であるという、福音の最大の強みにあるのです。人間の聞きたい言葉でもなければ、人間の心情に配慮してへつらう言葉でもありません。医者に体重を落としなさい、塩分を控えなさい、酒量を減らしなさい、というメッセージが世間で広く嫌がられるのと同様、罪を悔い改めてキリストを信じなさいというメッセージは嫌がられるメッセージです。

 

しかし、嫌がられるからといってそのメッセージを伝えないというのはどういうことでしょうか。例えば私たちは夜中に隣人の家から火が出ていることに気づいたとしましょう。「夜中に起こすのも失礼だし」とか「火事は縁起が悪いから伝えないでおこう」とか思わないでしょう?電話をかける、ドアを叩く、窓を割ってでも注意を引く、消防に電話する、などありとあらゆる行動を取るでしょう?一時的な家屋に対してそうであるならば、永遠の魂が失われようとしている人に対して、「いい人だから放っておこう」とは、絶対にならないはずでしょう?火事で人が命を落とすのが事実であるならば、主を知らずに死ぬことにより永遠の死に入ることはさらに大きな事実なのです。

 

というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。死のとげは罪である。罪の力は律法である。しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。

Iコリント15:52〜58

 

そう信じているのであれば、その様に生きましょう。

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