御言葉を託された者として
しかし、わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝える。わたしたち自身は、ただイエスのために働くあなたがたの僕にすぎない。「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。
IIコリント4:5〜7
これからしばらく、モーセやヨシュアから始まってダビデなど、主の言葉を託された様々な信仰の先輩たちについて学んでいきます。昔の偉人たちについて学んでも、私とは違いすぎで、偉大すぎて、私が学んで見習うべきところは何もないのではないか、と思われる方もおられるようです。しかし、思い出してください。これらの信仰の先輩たちは、確かに偉大である立派な歩みをしたけれど、そう、「しくじり先生」でもあるのです。さらに、彼らが国王や大預言者のような地位にいたとしても、その「しくじり」の原点は、私たちも全く同じく持っている人間の弱さにあるのです。
実際、聖書が神話ではなく史実であることを何よりも指し示しているのは、これらの偉人たちが全く神格化されていないということです。その偉業と同列に、彼らの弱さと失敗が記録されているのです!ダビデに至っては、南北統一を実現した、あれだけ偉大な国王でありながら、女子風呂覗きの事件とその後の「すったもんだ」が赤裸々に記録されています。本人と身内にとっては、たまったものではありません。しかし、失敗をしたことがあるからお前は使えない、完璧な人間しか私の用に当たることはできない、などと主は言われません。このあたりが、ポイントです。彼らは偉大すぎて、別の世界の人間すぎて、私は何も見習えないのではなく、彼らも私同様生身の人間なのです。だから、私もよく気をつけなければ、彼らと同じ失敗を、違う形で犯してしまうのです。
さらに、完璧な人が本当に神にとって重要かつ有用かというと、イェスはバプテスマのヨハネについてこのように言われました。
あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい。
マタイ11:11
バプテスマのヨハネは先にも後にもない義人でありましたが、それと同時に、イェスは神の国(「天国」は誤った意訳)では「最も小さい者も、彼よりは大きい」としています。これには、いくつかの重要な要素はありますが、ひとつには、義人であることで救われるとか、主にとって特段有用になるとかではなく、主は初めからそれを当然のとことして要求される、という点があります。また、義人というのは罪ある肉の姿の中である一方、神の国での最も小さいものも、清められ作り変えられた栄光の姿である点もあります。
一方、私たちが罪ある肉の身であるゆえに神の仕事に当たることができないかというと、そうではなく、信仰の偉人たちも全員、そのような姿で用いられたのです。完全な義人でない私たち一人一人も、同様に用いられるのです。
また、イェスがこのようにバプテスマのヨハネについて語られたのも、ヨハネの数少ないものの確実に存在した「しくじり」が原因でした。
さて、ヨハネは獄中でキリストのみわざについて伝え聞き、自分の弟子たちをつかわして、イエスに言わせた、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」。
マタイ11:2〜3
ここで、日本語では「みわざ」という言葉が使われていますが、これは明らかに問題です。「所業」とした方が良いでしょう。というのは、ヨハネは当初はイェスに関してこのように述べています。
ヨハネは彼らに答えて言った、「わたしは水でバプテスマを授けるが、あなたがたの知らないかたが、あなたがたの中に立っておられる。それがわたしのあとにおいでになる方であって、わたしはその人のくつのひもを解く値うちもない」。
ヨハネ1:26 〜27
しかし、マタイ11章のところでのヨハネはイェスが「そのお方」であることに疑問を抱いています。その背景には、ヨハネがエッセネ派に所属していてその背景で育ってきたとみられることがあります。
このヨハネは、らくだの毛ごろもを着物にし、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた。
マタイ3:4
これはヨハネ一人がこのようにしていたのではなく、エッセネ派の人は皆こうだったのです。エッセネ派は、世俗との接触を嫌い、清い存在であり続けるためにとの目的で、街には暮らさず、遊牧民の生活をしていました。個人の富も持たず、持てる財産は仲間で共有する、共同主義者たちでした。
しかし、ヨハネは祭司ゼカリヤの長男、レビ族のはずです。レビ族には、嗣業を持たないレビ族のための特殊は社会支援制度があったはずです。レビ族からエッセネ派に身を転じることは、よっぽどのことがないと考えにくいです。しかし、エッセネ派には独特な考え方がありました。それは自分たちのみが正しいため、子供であっても仲間にすることによって救済すべし、というものでした。力尽くで誘拐することはありませんでしたが、子供であっても説き伏せて、両親の承諾も得ずに連れ去ることも良しとしていたのです。
そういう中で、両親が高齢だったヨハネは、幼少期にエッセネ派に育てられることになったとみられています。そして彼らの価値観を植え付けられていきます。しかし、イェスはこのような価値観には従いませんでした。ヨハネとその弟子たちが、心身を清め追い込むために頻繁に断食をしていたのと対照的に、イェスは「大酒飲みの大食漢」と揶揄されるまでによく食べ、よく飲みました。このような行動がヨハネの中に不信感を芽生えさせました。
というわけで、ヨハネ1章にあるヨハネの言葉は聖霊から出た者ですが、マタイ11章にあるヨハネの言葉は、ヨハネの生い立ちと経験から来る、「肉の思い」から出たものだったのです。これこそが、「しくじり」の本性です。私も、何人もの宣教師が祖国を捨てて来日し、伝道をする中で、福音を述べ伝えているのか、古き良き時代の祖国を述べ伝えているのか、聞いている側もわからなくなるというような状況をみてきました。聞いている人がその区別ができないのは当たり前で、誰よりも本人が区別できていないのです。
私たちも、神の言葉の中の、私たちがあるべき姿と、私たちが日本の文化の中で育ってその中での良い人、「あるべき姿」と、きちんと区別ができているでしょうか?仮にそれができていなければ、私たちがいかに義人であったにしても、ヨハネと同じ「しくじり」をしてしまうかもしれません。そういう意味で、今後しばらく、神の言葉を預けられた様々な信仰の先輩の見習うべきところと、反面教師とすべきところを見ていこうとお思います。
こうして、わたしたちはもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教の風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく、愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。また、キリストを基として、全身はすべての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである。そこで、わたしは主にあっておごそかに勧める。あなたがたは今後、異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ、自ら無感覚になって、ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、放縦に身をゆだねている。しかしあなたがたは、そのようにキリストに学んだのではなかった。あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである。すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。こういうわけだから、あなたがたは偽りを捨てて、おのおの隣り人に対して、真実を語りなさい。わたしたちは、お互に肢体なのであるから。怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。また、悪魔に機会を与えてはいけない。盗んだ者は、今後、盗んではならない。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい。悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。すべての無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、また、いっさいの悪意を捨て去りなさい。互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。
エペソ4:14〜32