八王子バプテスト教会通信

7月18日のメッセージ 2021年7月18日

御言葉を託された、意外な人たち

 

こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。

IIペテロ1:19〜21

 

ペテロたちは山でイェスの栄光の姿を見て、天から響く父の声を聞きました。そのため、神の言葉に対する確信を一層強く持ちましたが、それと同時に、私たちに対しては人間の感覚や考えで御言葉を扱ってはいけない、とも忠告しています。哲学者の言葉や文豪の言葉ならば、私たちは得た知識や自分の感性、考え方で自分のものにしていくことができます。それは人間が考え、人間が語り、人間が書き残した言葉だからです。

 

しかし、神の預言は全く別の話です。なぜならば、それは人間の考えや人間の精神から生まれたものではなく、神が人間に賜ったものです。そのため、人間の言葉と同様に扱うことはできません。それを書き留めた人々も、自分の思いからそうしたのではなく、神の意思によりそうしたというのです。

 

どのような人が御言葉の記録に携わったのでしょうか?実に様々です。国王であったり大預言者であったりする場合もあれば、軍人や書記官、音楽家、医者、税金取りの場合もありました。また、聖書、特に旧約聖書においては、誰が書き留めたのかがはっきりしているのは一部で、多くの部分は誰が書いたのか、よくわからないのです。そのために、誰が何を書いたのかに関して様々な研究や議論が重ねられてきましたが、はっきりした答えが出ないのがほとんどです。

 

しかし、それでいいのです!重要なのは語る口ではなく、語られた言葉そのものだからです。そして聖書の執筆には、従来から認識されてきた40人程度の他にも、名も無き聖人が何人もいそうです。このことのヒントになる聖句があります。

 

これらもまたソロモンの箴言であり、ユダの王ヒゼキヤに属する人々がこれを書き写した。

箴言25:1

 

御言葉に記録されている通り、ヒゼキヤ王はソロモンの言葉の書の編集を監修しましたが、実際の作業に当たったのは本人ではなく、「属する人」、つまり家臣だったということになります。この原理は当然のものです。例えば、神奈川県の鎌倉に、鶴岡八幡宮という有名な神社がありますが、これはおよそ1000年前に源頼義(みなもとのよりよし)が建てたと記録されています。しかし、源頼義本人がノコギリとトンカチを持って、材木を運んでいたかと言えば、そんなことはあり得ません。出したのは指示とお金だけでしょう。大きな事業を行うというのは、そういうことなのです。そして、その下で実際に労して建てた人々の記録はほぼ皆無なのです。同様に、パリのノートルダム大聖堂も約1000年前に、司教モーリス・ド・シュリーが建てたことになっていますが、本人が石材を切り出して運んで積んだわけではなく、指示して起こさせた工事が後世になって完成したというものです。

 

そこで、聖書の編集・監修の作業が大変興味深く感じられます。これに携わる人も、当初の言葉を書き留めた人々と同様に、霊感を受けて作業をしているということになります。それだから、「人々が聖霊に感じ、神によって語った」という漠然とした表現になっているのでしょう。ユダヤ教において、聖典の写本に関する規定があります。それは、一字一句、正確に書き写されるように、厳しいルールがたくさんありました。しかし、編集・監修はそれとは全く別の作業です。文の中身を、後世に残すために、完成形にするための作業であり、写本とは違って文の中身に立ち入る作業です。

 

旧約聖書を守ってきたユダヤ人たちは、聖書は神から与えられたものであることと、それから神に導かれて編集・監修に当たった人々がいたこと、とを信じています。このような編集・監修の作業がなされたとされるのは、ソロモンの言葉だけではありません。例えば、「モーセ五書」と呼ばれるトラーは、第二神殿時代にエズラが編集を監修したということになっています。また、「列王紀」は長い時代の様々な出来事を記録したために、様々な時代における多くの人々が書き留めたものをまとめた書になりますが、これの監修をしたのがエレミヤということになっています。もちろん、全ての作業をエズラやエレミヤがしていたのではなく、その指揮のもとで多くの名もなき聖人たちが神に感じて作業に当たっていたということになります。その他の編集や監修も当然ありうるもので、そのために、当初はユダヤ教になかった、後の時代の外来語が含まれているというのも納得できます。

 

それでは、その作業は、今日も続いているのでしょうか?いや、聖書は既に完成されているので、誰ももはやそれに立ち入ることは許されません。

 

この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。これらのことをあかしするかたが仰せになる、「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ。

黙示録22:18〜20

 

しかし、聖書を他の国の言葉に翻訳する作業をしている人は、気を付けなければ恣意的にこのようなことをしてしまうことになりかねません。例えば1611年版の欽定訳(英訳)がイングランド国王ジェームズ1世のもとで行われたとき、最高品質のものとせよという指示が出されましたが、それと同時に、当時の英国教会にとって都合の悪い訳とならないようにとの策も取られました。もっともわかりやすいのは、新約聖書のギリシャ語のbaptizw(バプティーゾ)を忠実に翻訳することを禁止され、baptizeという、一般の人には意味がわからない「外来語」として扱うように命じられたことでした。

 

これと対照的なのが、明治に入って来日したバプテストの宣教師、ネイザン・ブラウンです。彼のお墓は横浜の外人墓地にありますが、み国では直接本人に会えるでしょう。ネイザン・ブラウンは当初は他の教派の宣教師たちと一緒に聖書を和訳しようというプロジェクトに参加していましたが、他の教派の宣教師たちが「バプティーゾ」を、それまでカトリックが使ってきた「洗礼」と訳そうとしていたことで衝突が起きます。それは聖書のあずかりを知らない単語だ、と彼はプロジェクトを離脱し、自力で新約聖書を翻訳し、プロジェクトよりも先に出版します。その「ネイザン・ブラウン訳」は歴史的価値があるだけではなく、非常に忠実な訳として、今でも研究者たちが大切にしています。その中では、「バプティーゾ」を「沈め」、ヨハネのことを「沈め人ヨハネ」と、しっかりと忠実に訳しています。(ネイザン・ブラウンは、その他にも庶民が読めるようにと、日本で初の「ひらがなせいしょ」も出版しますが、これはまた別の話です。)

 

なぜ、聖書をここまで忠実に守ことが必要なのでしょうか?ユダヤ教の写本の時代においても、「単語単位で写してはならない、文字単位で写さなければならない」という規定がありました。なぜでしょう?

 

それは、聖書が神から私たちに与えられた「取扱説明書」であると考えると、わかりやすいかもしれません。私たち人間そのものの「取扱説明書」でもあり、「人間と神の関係」の「取扱説明書」でもあります。神は、文字通り「メーカー」です(英語では、「創造主」のことを、頭文字に大文字を付しての “Maker” と言います)。メーカーは、商品を意図と計画性を持って開発販売し、それによって購入者の生活をより良くする、その代わりに対価をもらう、という存在です。そのために、商品をその計画と目的に合わせて使ってもらうことが必要です。しかし、取扱説明書を読まない人がほとんどです。そのため、近年になって、「クイック・シート」と呼ばれる、最低限度の情報が書かれた一枚ペラが、商品と同封されるようになっています。意図された使い方をしてもらうことが、やはりメーカーにとって、消費者との関係を維持する上でも大切なのです。

 

しかし、世の中には、その使い方を守らないどころか、別の使い方の「裏取扱説明書」を勝手に作り、拡散する人もいます。私が知っている実際の出来事としては、1980年代に、市販されていた家庭用洗剤の「新しい使い方を開発した」として、その使い方を印刷して拡散していた人がいました。しかし、その使い方は、メーカーからすると「人体に危険が及ぶ恐れがある、絶対に真似してはいけない」として、注意を発表しました。さらに、勝手に違う使い方を宣伝していた男性に対して、即刻やめなければ、訴訟も辞さないと圧力を加えました。間違った使い方でメーカーの商品に対して悪いイメージが定着することを恐れてのことでした。

 

私たちの主は、洗剤メーカーが消費者や製品を大切にする以上に、私たちを大切に思われているのです。ですから、私たちが「正しい使い方」から外れてしまうことに対しては、それだけ厳しいのです。

 

あなたがたがこんなにも早く、あなたがたをキリストの恵みの内へお招きになったかたから離れて、違った福音に落ちていくことが、わたしには不思議でならない。それは福音というべきものではなく、ただ、ある種の人々があなたがたをかき乱し、キリストの福音を曲げようとしているだけのことである。しかし、たといわたしたちであろうと、天からの御使であろうと、わたしたちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その人はのろわるべきである。わたしたちが前に言っておいたように、今わたしは重ねて言う。もしある人が、あなたがたの受けいれた福音に反することを宣べ伝えているなら、その人はのろわるべきである。今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい。兄弟たちよ。あなたがたに、はっきり言っておく。わたしが宣べ伝えた福音は人間によるものではない。わたしは、それを人間から受けたのでも教えられたのでもなく、ただイエス・キリストの啓示によったのである。

ガラテヤ1:6〜12

 

そして、このように逸れることに対する厳しい姿勢は、旧約の律法が与えられた時から一貫しています。

 

あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものには、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。

出エジプト20:4〜6

 

一般的な消費者とメーカーの関係で考えれば、自分でお金を出したんだから、自分でどう使おうとかってじゃないか、という考え方があります。例えば、炊飯器を買ったけれど、これを漬物石として使いたい、金庫として使いたい、ドッジボールとして使いたい、そいうようなメーカーを悲しませるような使い方をしても勝手じゃないか、というものです。しかし、私たちの生き方、私たちの魂に関して言えばだいぶ違います。私たちはメーカーの裁きの座の前に立つことはありませんが、「一度だけ死ぬことと、その後の裁き」が私たち全員に定められているのです。

 

あなたがたに言うが、審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。あなたは、自分の言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によって罪ありとされるからである。

マタイ12:36〜37

 

そう考えると、主から預かったものを誤って使うことがないように、本当に大切な取扱説明書です。信仰の先輩たちが命をかけて守ってきたわけです。私たちにとっても、より生活の中心になるように心がける必要があるでしょう。

 

あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。

詩篇119:105

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