御言葉を託された人:エノク
信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。彼が移される前に、神に喜ばれた者と、あかしされていたからである。信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。
ヘブル11:5〜6
今まで、神が人に託した御言葉、「預言」の性質について考えてきました。それは、人間があるべき姿になることができるようにするためのもので、神と人とが共に住う世界を望まれる神がそのために人に託されたものです。今日は、その御言葉を託された、つまり「預言を預かった」人々について考えていきたいと思います。
神が初めて人に語られたのは、言うまでもなく天地創造の時でした。人が罪を犯すまでは、神は人と親しく語り合っていました。しかし、これは「預言」ではありません。また、人が罪を犯してしまった時、神は初めて人に対してこれからの未来についての言葉を賜りました。
神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」。そこで主なる神は女に言われた、「あなたは、なんということをしたのです」。女は答えた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」。主なる神はへびに言われた、「おまえは、この事を、したので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう。わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。つぎに女に言われた、「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」。更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。
創世記3:11〜19
これは、確かに未来のことを語っているので、「予言」という言い方もできますが、人に託された神の言葉ではないため、「預言」とは性質が違います。ちなみに、この箇所は「プロトエバンゲリウム」、つまり「原福音」と呼ばれている箇所です。神が初めて人に賜った救世主メシアの約束でもあり、人類救済の初めての約束です。
では、この箇所は誰が書き留めたのでしょうか?伝統的なユダヤ教においては、聖書の最初の五巻はモーセが神の霊感を受けて書き、最後の部分はヨシュアが書き、そしてそれをのちの時代にエズラが監修した、ということになっています。そのために、この五巻は「モーセ五巻」とも呼ばれています。確かに、エズラが監修したというのは、十分に根拠がありうる経緯です。ヘゼキア王がソロモンの書を監修したように。しかし、モーセが五巻を書いたことには、ユダヤ教の言い伝えしかなく、実際に誰が書き留めたのかは、列王紀や歴代史のように不明です。不特定多数の人物が霊感を受けて書き留めたことも十分にあり得ますし、モーセがその中の一文字も書いていない可能性があります。
だからと言って、モーセが預言に関わっていないということではありません。モーセは旧約の律法をまとめて神から預かり、イスラエルに伝えたのです。これこそが「預言」です。しかも、モーセはその一部を、書き留めた文字の形で預かりました。神自らの指で刻んだ石板二枚です。それゆえ、「律法はモーセをとおして与えられ」(ヨハネ1:17)と言われるのです。
それ以前にも、神が人と語り、人に未来を示し、人に約束を与え、そして人と代々の契約を結ぶことがありました。まさにアブラハム、イサク、ヤコブがそうです。しかし、彼らは人類に対して書き残す形で預かったのではなく、それを別の人が、おそらく後の時代に書き留めています。
では、モーセ以前に預言に携わった人はいないのでしょうか?実は、います。エノクです。
アダムから七代目にあたるエノクも彼らについて預言して言った、「見よ、主は無数の聖徒たちを率いてこられた。それは、すべての者にさばきを行うためであり、また、不信心な者が、信仰を無視して犯したすべての不信心なしわざと、さらに、不信心な罪人が主にそむいて語ったすべての暴言とを責めるためである」。
ユダ1:14
エノクといえば、ノアの曽祖父(そうそふ)、つまりひいおじいちゃんに当たる人物です。モーセよりはるかに古い人です。そのエノクの預言の書を、ユダが引用しているのです。では、エノクの預言の書はどのようなものでしょうか?ノアの大洪水に対する予言や、世の終わりに対する予言が大量に含まれた、興味深い所です。しかし残念ながら、現在残されている「エノク書」の大半の部分は「偽典」とされる、後の時代に書かれたもので、どの部分が元々の書であるのかが不明です。カトリックの外典にも含まれていません。
それはエノクにとって残念なこと、と思われるかもしれませんが、全くそんなことはありません。結果から言えば、エノクの預言は洪水前の時代のためのものであり、全時代の全人類のための今の聖書とは性質が異なるものだった、ということです。しかも、エノクは全く残念な人ではありません。あまりにも正しく歩んだので、死を見ることなく天に移された、と記録されています。
ちなみに、黙示録に登場する「二人の証人」(二本のオリーブの木、二本の燭台)は、死を見ることなく天に挙げられたエノクとエリヤではないかという説があります。そうかもしれませんが、この二人だけが死を見る事なく天に挙げられたという以外の根拠はありません。
エノクが最も幸せで祝福された人物であるということは、預言に携わるために用いられたことにあるのでもなく、ひょっとすると世の終わりに神の証人として用いられるということでもなく、神を愛してその道に歩んだことにあります。
イエスがこう話しておられるとき、群衆の中からひとりの女が声を張りあげて言った、「あなたを宿した胎、あなたが吸われた乳房は、なんとめぐまれていることでしょう」。しかしイエスは言われた、「いや、めぐまれているのは、むしろ、神の言を聞いてそれを守る人たちである」。
ルカ11:27〜28
そういうことなのです。人間的に見て多くのことを成し遂げた、偉人と呼ばれる人であっても、幸せかというとそうとも限らず、その人はその人で自分に与えられた分と立場を生きているのです。それに対して、神の御国では、世界の隅っこで誰にも気づかれることなく、ひたすら神の御言葉に親しんで生きてきた人が、偉大なものとされるのであり、それは誰にでも開かれた道なのです。そうやって生きる人は、有名であっても無名であっても、最高な幸せが与えられるのです。
すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。
ローマ8:14〜18