「預言:御言葉が与えられたということ」
神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。
ヘブル1:1〜3
先週、私たちは神からの祝福を待つだけではなく、身言葉を守り行うことによって祝福と安心のある生活を送ることができるということについて考えました。ある意味、私たちにとって聖書の存在は幼少期から触れており当たり前のもので、時には親しみを覚えたり、時には少し億劫だったりしたのかもしれません。しかし、御言葉、つまり聖書が存在するということ自体、ものすごく素晴らしいメッセージが込められているのです。
聖書の言葉は、「預言」です(「予言」ではありません、念のために)。つまり、神が誰かに託したご自身の言葉、人間に伝えたい、ご自身の意思なのです。聖書のページ数から見ると、神は相当たくさんのことを託して伝えさせてきましたね。なぜそうしたのでしょうか?理由は、実は簡単です。神は、子である私たち人間が大好きなんです。エデンの園でも、神は毎日のようにアダムとイブと一緒の園の中を散歩することを楽しみにしておられました。人間の裏切りによってその関係が断絶されるまでは。しかし、その後も神は人間に対して、言葉をかけ続けました。断絶されてしまった関係を修復する方法と道筋を伝え続けました。何千年もの間。まるで、恋人に愛想をつかれてしまっても、延々とラブレターを書き続ける人のように。そう、聖書はまさに、神から人間へのラブレターに他ならないのです。
神の側から、人間のところにやって来られた。この事実に気づいた時に、人生を変えられた人物がいます。18世紀から19世紀にかけて活躍したスコットランドの詩人、ジェームズ・モントゴメリです。彼はモロヴィア兄弟団の宣教師の家に生まれましたが、彼がまだ幼かった頃に、両親は任務地の西インドで殉教しました。彼は教団の手厚い保護を受けて育てられ、教団の神学校に進むことができました。しかし、そこで問題が発覚しました。彼は根っからの、天才的な詩人でした。彼が当時書いた詩の美しい描写は、今でも感動を呼びます。しかし、神学校では詩は世俗的なものとして厳禁、結局彼は中途退学してしまい、そこから大きく跳ね返ってしまいます。
当時のイギリスでは、国家に対する不満と不信が広がっていました。18世紀後半でアメリカの独立戦争に負けたのに続けて、1812年に勃発した米英戦争でも大敗し、わずか数十年前までは世界最強と言われた英国艦隊は見る姿もなくなってしまいました。英国政府は無能だ、国策が間違っている、国家を打倒せよ、という運動が各地で起こり、自らの反骨精神を発見したばかりのモントゴメリはこの波に自分の心の居場所を見出しました。いくつか職についたのですが、どれも長続きせず、最終的には国家転覆を目論む勢力の新聞社に就職しました。ここでは才能を存分に発揮し、入社から数ヶ月後に編集長が国家反逆の罪で逮捕されると、そのまま編集長のポストに押し上げられます。そこで彼はますます極端な思想に傾倒するようになり、新聞の愛読者たちの間にもファン層が広がります。何度となく逮捕、投獄、釈放を繰り返すようになってしまいますが、愛読者からすればそれも「国家が間違っていて、モントゴメリが正しいことの証拠」として捉えられるようになっていきます。いわゆる、「ハクがつく」ということです。
しかし、そういう彼もいつまでも怒りと反骨だけを糧にして生きることができず、少しずつ幼少時代の信仰を思い出すようになります。職場では相変わらずでしたが、プライベートでは少しずつまた御言葉に親しむようになっていきました。そして、クリスマスが近づいたある日、彼は自宅で聖書を読んでいました。ルカの2章の箇所はクリスマスには有名な記述ですが、天使たちが羊飼達に現れて良き知らせを歌った箇所を読んだ時、まるで天からの稲妻が突き刺さったかのような衝撃が彼に走りました。今までは押し付けがましく思っていた御言葉の全てを、自分が真逆に捉えていたことに気づきました。本来は罪の中に放置されていても仕方ない人類に対して、「向こうから来てくれたんだ!」という神の思いに気づいたのです。
興奮冷めやらぬモントゴメリは、早速ペンを取り、詩を書き始めます。まずは、あの夜の栄光の彼方からやってきた天使たちのこと、それから羊飼たち、博士たちに話を広げ、そして最終的に全人類を巻き込んだ壮大な詩を描きます。そして、この詩を、なんと自分の新聞で発表したのです。愛読者たちからすると、「編集長がおかしくなった」と思われても仕方ないかもしれませんが、この詩が意外な人の目に留まりました。当時ロンドンのリージェント・スクエア教会の音楽を担当していた、イギリスを代表するオルガニストで作曲者のヘンリー・スマートでした。彼はモントゴメリに手紙を書きます。私は自分の教会の記念行事のために曲を書き下ろしたのだが、私がをそれを使うより、君の詩の曲として当てた方が良さそうだ。よかったら使ってくれ、というものでした。こうしてできたのが、私たちの旧聖歌集144番、「あまつみつかいよ」です。
その後、モントゴメリの人生は徐々に変わっていきます。そして彼は国家との闘争から、貧困との闘争、奴隷制度との闘争、少年少女の強制労働との闘争と、生きる目的を変えていきます。今の私たちの社会の平和と平等の概念に対する彼の影響は決して小さいものではありません。
なぜ、神が私たちにこのように関わり続けようとされているかというと、冒頭でも述べたように、私たちが大好きで、私たちとまた一緒になりたいからです。しかし、簡単なことではありません。一旦関係がおかしくなってしまった親子の関係をもとに戻すことに時間を要すると同じように、時間を要するのです。神はご自分のご計画に中にこれを進めようとされているのですが、人間の側は非常に鈍感で、なかなかその気持ちに気付こうとはしません。人間側の気持ちや事情ばかり考え、本質的な和解と平安にはなかなか目が向きません。
神が目指しているものを、私たちにとって少しわかりやすく表現すると、それは全てを「あるべき姿」に戻す、ということです。私たちにとって、「あるべき姿」とはどういうことでしょうか?人間があるべき姿で生きるということは、例えば、戦争や争いがない世界で、自給自足の生活をすること、病気もなく、自然と協調できる世界、このようなものが想像されるかもしれません。確かに、それは事実です。神が新しい天と地で私たちのために用意されるのが、まさにそのような世界です。
しかし、その前に私たちも考えなければなりません。というのは、それは私たちの一方的な要求であり、私たちの一方的な事情です。神に対して私たちは何を提供しているのでしょうか?その結果、神は私たちからどのような見返りを受けているのでしょうか?
前回までの話の、私たちが自らを生ける捧げ物として、生ける石として捧げることにつながります。私たちが、「あるべき姿」で生きることができる世界を要求する以前に、私たちの側が「あるべき姿」として生きているのでしょうか?この「あるべき姿」になるためにヒントが、IIテモテ3:16〜17に書かれています。ここからしばらくシリーズで、これを達成するために神が与えてくださった御言葉、「預言」について考えていきたいと思います。
聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。
IIテモテ3:16〜17