八王子バプテスト教会通信

3月14日のメッセージ 2021年3月14日

前回まで士師記を学び、様々な反面教師を通して私たちがどのようなことに気をつけなければならないのかを考えました。ほとんどの問題は、各自が「私はこれが正しいと思う」と考えたことをそのままを行動に移し、神の言葉と照らし合わせなかったことにあります。

今日はエピローグです。

 

士師記の終わりはとてつもなくバッド・エンディングでした。バッド・エンディングのエピローグが打って変わってハッピーになることは考えづらいことです。なぜならば、人のすることは良いことも悪いことも、その先に波及していくからです。特に、悪いことに関してはそれが顕著です。小説「嵐が丘」が思い浮かびますが、今日読むのは小説ではなく、士師記からの続きです。Iサムエルの1〜4章をお読みください。

 

読んでみると、やはり変わらないな、と感じます。一方、その当時のイスラエルの中にも、心底主を愛して従っていた人々もいることがわかります。

 

ハンナは、子供が欲しくて仕方ありませんでした。そのような人がようやく子を得たならば、場合によってはその子供を伴侶よりも、神よりも大切にしてしまうことも、間々あります。しかし、ハンナは主に誓われたことを、忠実に遂行し、サムエルが乳離れした時、約束通りに宮に預けました。

 

サムエルは、幼少期から一生懸命主に仕えました。大きくなるとイスラエルの人々の信用と尊敬を得るようになりました。そのような生き方をしていたからです。ついに、サムエルはイスラエル最後の士師、裁き司になりました。主が約束された通り、サムエルはやがてダビデに油を注ぐことになるのです。

 

さて、ここまでのところ、反面教師になるような人物はいないですね。エリの二人の息子が論外なまでに極悪非道だったのは別として、今日の私たちの反面教師は、大祭司エリに他なりません。エリは、どのような悪事を行ったのでしょうか?それは神の戒めに従うことと、子煩悩とを天秤にかけたとき、子煩悩が勝ってしまったということです。

 

子煩悩と言えば、かのダビデ王ですね。自分が責任持って子供をしつけないどころか、我が子をしつけようとする人も許しませんでした。その結果、子供たちは好きなように育ち、好きに振る舞い、クーデターを二つも起こし、アブサロムは戦死しました。そのときダビデは、悲しみのあまり慟哭しますが、自分以外に責められる人はいません。一方、アブラハムも子煩悩でしたが、その選択を突きつけられたとき、迷わず神の命令に従うことを選び、「信仰の父」としての生き方を私たちに示しています。

 

エリには、まず子供に神のことをしっかり教える責任がありましたが、二人は主を知らずに大人になってしまっていました。また、成人した子が道を外したとき、親が正すか罰しなければならないのに、エリは手をこまねくばかりで、せいぜいが時折、口先で説教する程度でした。彼らの悪をイスラエルから取り除くための行動を一度も取りませんでした。なぜ、他では良い祭司だったエリが、ここだけ外したのでしょうか?

 

ダビデの場合もそうですが、自分が天真爛漫な性格の人は、自分の子供に対して厳しく子育てをする必要を感じず、自分が育ったように放っておけば、良い人に育つはずだ、と考えてしまうこともあります。つまり、神の明確な命令よりも、自分の感性に頼ってしまうのです。

 

箴言3:5〜8

心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。

すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

自分を見て賢いと思ってはならない、主を恐れて、悪を離れよ。

そうすれば、あなたの身を健やかにし、あなたの骨に元気を与える。

 

これは子育てに限った話ではありません。私たちは様々なところで、自分の感性と主の御言葉が衝突することを知っています。そして私たちが自分の感性を優先させてしまうと、そこに罪が生まれます。罪の支払う報酬は死であるとおのみ言葉どおり、私たちはその法則をここ数週間見てきました。私たちの生活の中においても同じなのです。私たちが自分の気持ちよりも神の言葉に従うことをしなくても、おそらく周囲の人は死なないでしょう。しかし、その人たちが神の言葉に従うように導かなければ、より大きな、霊的な死にもつながっていきます。

 

さて、話のその後です。やがて、イスラエルの人々は王が欲しいとサムエルに詰め寄るようになります。神はそのとき、それに応えてサウルを王として与えました。背が高く、りりしい風貌のサウルにイスラエル国民は狂喜乱舞しました。しかし、それは神からの罰でもありました。サウルは人一倍の小心男で、自分が人にナメられないように、見下されないように、と威勢をはって、様々な愚行に及んでしまい、国を内戦に巻き込んでしまいます。

 

なぜサウルはそんな小心男だったのでしょうか?それは彼の劣性コンプレックスからきます。なぜ彼に劣性コンプレックスがあったのか?それは、彼がベニヤミンの部族の出身だったからです。士師記の最後のあの忌まわしい事件を起こした部族として、当時もまだまだ、肩身が狭かったのです。歴史は繰り返し、歴史は再び同じ歴史を作り出すのです。

 

私たちの言動も、私たちの周囲にとどまるのではなく、波及するものであることを考え、私たちの言動を導くのは私たちの思いではなく、主の言葉であるべきと認識しましょう。

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