イェスの譬え話(27)「パリサイ人と取税人」(ルカ18:9〜14)
この譬え話の中で、二人の人が神殿に祈りに行きました。一人はパリサイ人、もう一人は取税人でした。ユダヤ社会の中の全く正反対な二人です。パリサイ人は「正しくある」ことに人生をかけていたのに対して、取税人はローマに魂を売った国の裏切り者、罪人の最たるものとされていました。
まず、パリサイ人がお祈りをします。
「神様、ありがとうございます!私が他の人々、特にこの取税人のような罪人でないことを!私は人を騙したことも、女性と不適切な関係を持ったこともありません!毎週必ず二回断食をし、全収入に対して1/10献金をしています!ありがとうございます!」
しかし、取税人は神殿に近づくことも出来ず、遠く離れ他ところで自分の惨めさに打ちひしがれて、下を向いたまま祈ります。
「神様、罪人の私をあわれんでください!」
さて、この二人のうち、義とされたのはどちらか?というのがこの譬え話です。
答えに行く前に、いくつかの基本情報を確認しましょう。
そうしないと、思い込みで勘違いした結論に至ってしまうからです。
まず、このパリサイ人と取税人とでは、どちらが日常的に正しい行いをしていたでしょうか?パリサイ人の方が、日本の時代劇風に見れば、表では善良な権力者のフリをしながらも、実は裏では賄賂を貰ったり無実の人を罪に陥れて小判の山を掻き込む、そのような存在ではなかったのか?悪代官に「くくっ、おぬしも悪よのう」と言われながら。
そのようなことは全くありません。これはパウロの証言からもわかります。確かにユダヤ社会にはそのような悪人はいましたが、パリサイ人はそうではありませんでした。本気で正しい人になることに人生をかけていました。さらにその上、自分がそのように正しい存在であることを信じて疑いませんでした。だから、求められた以上の回数の断食をしますし、非課税になっている収入に対しても1/10を納めていたのです。正しい人であることこそ、ライフワークだったのです。
ただ、彼は神に何も求めなかったため、神から何も受けることなく、神と和解することもなく、帰ってしまいました。
では、取税人はどうでしょうか?経済的な理由から仕方なく始めた仕事だが、実は心清らかで、税金を取り立てる相手を思いやり、時には「三方一両損」の精神で人を助け、いつかはこの惨めな立場を脱して、胸を張って歩ける本当の男として錦を飾るぞ!と日々を過ごしていたのでしょうか?
そのようなことは全くありません。彼は神殿に対してさえ目を合わせることができないほど、罪悪感に押し潰されそうなのです。取税人がローマ政府からもらう給料はそこそこでしたが、その他に、徴収すべき税額以上を取り立て、私腹を肥やすことも黙認されていました。市民がそれに対して抗議した場合、ローマ兵を呼びつけ、その市民をローマの敵として取り締まらせることすらできました。みんなから恐れられ、嫌われていたのです。この取税人の態度から見ると、彼はおそらくこのようなことをしたことは一度や二度ではなかったのでしょう。
しかし、彼は神に罪の許しを求めたので、罪の許しと、神との和解を得て帰ることが出来ました。
というわけで、少し話の本質が見えてきました。今日のこの譬え話のテーマは、「善行」と「義とされる」ことです。この二つは、全く違う、かけ離れたものです。
まず、「善行」とは、神が当然のように私たちに求められる良い行いです。しかし、私たちがいくら良い行いを行っても、私たちの罪は消えませんし、私たちは神の前に正しいものにもなりません。それ以前に当たり前にように求められるものにすぎません。
「われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである。」(イザヤ64:6)
それでも、神は私たちに正しくあることを求められるのですが、善行を積み重ねて義とされるという発想自体、あべこべになってしまっているのです。
「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。 わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。」(エペソ2:8〜10)
つまり、私たちは良い行いを重ねてその内に神に認められようと思ったら、いつまで経っても認められません。しかし、私たちが神に対して「私を許して私を救ってください」と願い出れば、その瞬間に「義」とされます。正しい存在とされます。その結果、私たちは神を喜ばせる良い行いをして日々を過ごすという、本来の姿になることができるのです。「善行」は行い、「義」とは、神の子として頂く本質なのです。
最後に、このパリサイ人、実は私たちにとってとても気をつけなければならない点を教えてくれています。というのは、彼は善人であることがライフワークでしたが、実はひとつ、大罪を犯していました。それは、彼が軽蔑している人がいたということで、これこそがこの譬え話の最大のポイントです。
しかし、世の中には本当にひどい、むごいことをしている人もいるでしょう?その人たちがしていることも認めなければならないのでしょうか?
確かに、彼らの行いはひどいもので、決して許されるものでないかもしれません。しかし、彼らは私たちと同じ罪人であり、まかり間違っても自分が彼らよりも良い罪人であるなどと思ってはいけません。そのような人々に対してどのような態度で望めば良いのでしょうか?
「彼らをあわれみ、火の中から引き出して救ってやりなさい。また、そのほかの人たちを、おそれの心をもってあわれみなさい。」(ユダ22〜23)
彼らの行いを忌み嫌いながらも、あくまでもあわれみ、謙虚な想いで接することです。私たちが彼らにどう接したかで、主が私たちにどのように接するかを決められることを忘れることなく。