イェスの譬え話(26)「不正な裁判官」(ルカ18:1〜8)
今回もまた、イェスの話の中では風変わりな譬え話です。あるところに神をも恐れず人を人とも思わない不正な裁判官がいました。彼のところに、公正な裁判を求める未亡人がしつこくやって訴えるようになりました。あまりのしつこさに、不正な裁判官も根負けして、公正な裁判を行うことにしました、というものです。18:1に祈りについて触れられているので、「私たちは神様も根負けするほどしつこく祈れば、神様は言いなりになってくれる」といった解釈もなされてしまっています。
これではおかしな話です。まずそのようなおかしな解釈が出てくる最初のきっかけは、18:1の誤訳に原因があります。口語訳では、「失望せずに常に祈るべきこと」となっています。また、新共同訳も「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」と訳しています。しかし、これらいずれも「祈り」が中心テーマになってしまっていて、原文とニュアンスが違ってしまっています。これに対して、聖書協会共同訳は、原文のギリシャ語通りに、「イエスは、絶えず祈るべきであり、落胆してはならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。」と訳しています。
前者二訳では、祈りそのものが目的になってしまっています。そして、その祈りを続けられるように、失望せずに祈り続ける、というようなニュアンスになってしまっています。そうすると、それに続く譬え話の解釈もおかしなものになっていってしまいます。もちろん、これは祈りが重要ではないとかそのようなことを言っているのではありません。「絶えず祈るべき」とありますし、Iテサロニケ5:17にも「絶えず祈りなさい」とあります。勘違いしてはいけないのは、祈りは最終目的ではなく、何かを成し遂げるための手段です。その成し遂げる対象とは何でしょうか?
この譬え話のテーマそのものが答えです。社会正義と公平の実現です。もちろん私たちは福音と神の国を述べ伝えながらこれに携わるので、敵もそれなりに作ってしまいます。
御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。
IIテモテ4:2
父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。
ヤコブ1:27
社会正義を行き渡らせることによって救われることは決してあり得ませんし、また福音伝道のもならないかもしれませんが、神はそれを私たちの手から確実に要求されます。もちろん、私たち一人一人が全てを投げ打ってこれに没頭するということではありません。教会というより大きな体の中で自分に与えられた分に従って関わります。そして当然、目の前に困っている人がいるのを見たなら、その場で自分にできることをしてあげます。
私たちがこのように生きていると、妨害をする人や勢力、私たちの力ではどうにもならない権力などがそれを妨げて来ます。その時に、私たちは天の父に祈るのです、どうか私たちを助けて正義を実現してください、と。そしてそれが瞬時に実現しなくても、落胆しないことです。
さて、「しつこく祈る」のテーマはどこにいったのでしょうか?実は、しつこく正義をせがまれて根負けする不正な裁判官は、天の父を表現しているのではなく、むしろその逆です。人間がしつこい要求に根負けしたのだとすれば、「まして神は、昼も夜も叫び求める選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでも放っておかれることがあろうか。」ということです。これは、マタイ7:11の教え、「このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。」と全く同じ教えなのです。
もちろん、常に祈ることは大切です。主の正義に期待することも大切です。しかし、特にこのような不安定な世の中で、私たちは周りの状況に影響されず、また自分の気持ちに影響されず、常にその場において正しいこと、主の体の一部としてなすべきことをすることです。いかに不安定な状況下でも、手を休めることはせず前進しましょう。主が戻られた時、私たちの中にそのような信仰を見いだされるでしょうか?