八王子バプテスト教会通信

5月17日のメッセージ 2020年5月16日

イェスの譬え話(25)「主人としもべ」(ルカ17:7〜10)

 

この譬え話は比較的わかりやすい一方、イェスが何を教えたかったのか、いまいちつかみづらい印象もあります。イェスの譬え話は、こういった内容です。誰かが、農耕や牧畜のためにしもべを雇っていたとしよう。そのしもべが外作業を終わって帰って来たら、「お疲れさん、ご飯作ってあるから食べてしまいなさい」ということはないだろう、しもべに身支度と自分(主人)の給仕を命じて、その後で食事をするようにいうだろう?というものです。

 

今の時代はずいぶん違って、社長がサラメシを作っておいて帰ってくる社員をもてなすこともあります。当時ではまずあり得なかったことでしょう。当時は一日の労働時間は12時間、日が落ちても主人はしもべをきっちり働かせます。今では労働法で作業内容が制限されたりもしますが、当時はそのようなものはありません。何よりも今と昔とで違うのは、主人としもべの間の絶対的な立場の違いでした。今では経営者と労働者が様々な規定や合意によって関係が明確にされていますが、これは実は20世紀に入って本格的に整ったものです。それまでは、全世界のどの時代においても、この譬え話に出てくるような絶対的な関係がありました。

 

もちろん、この話は神と私たち人間の関係を教えるための譬え話です。当然、絶対的な関係があるはずなのですが、私たちは自分中心に生きたがる存在なので、そこのポイントが簡単に曖昧になってしまうのです。

実は、これを勘違いして大きく紆余曲折した人生を送ったのが、賢者ソロモンです。神からとてつもない知恵と富と栄光とが与えられたのは、3代目イスラエル国王として賢く民を導けるようにと知恵を求めたためでした。しかし、これを手に入れた彼は、政治は政略結婚など安易な人知に頼ってしまい、知恵と富を使って趣味に走ってしまいます。特に彼は、世の中、宇宙はどうなっているのだろう、神とはどういうものなのだろうと徹底的に追求しようと考えましたが、考えれば考えるほど、人間の思考に添わないのが現実であることに気づき始めます。そして、最後に悟ります。そうだ、神は神であって、人間は人間なのだと。なぜそんなことに、もっと早く気づかなかったのだろうか...

 

さて、今日の話のメインポイントです。この譬え話は、前後の文脈とは無関係に、脈絡なく登場するものとして段落分けされていることが多いのですが、果たしてそうでしょうか?この前の箇所には、

  1. これら小さい者を一人でもつまずかせるよりは、死んだ方がまし
  2. 誰かに悪いことをされた後に、その人が謝って来たら、たとい日に7回でも許せ
  3. からし種ほどの信仰さえあれば、桑の木に命じて移すことでもできる

といったことが教えられています。その中で、弟子たちは、「私たちの信仰を増してください」とイェスに懇願します。そのようなこともできる豪快極まりない強力な信仰が欲しいというものでした。

 

それに対して、イェスがこの譬え話をされたのです。結論から言うと、このようなことが難しいと感じるのは、信仰が弱くて足りないからではなく、人間中心に考えているから。雇われているしもべが、自分が何をしたいか中心に考えて働くのではなく、主人の役に立つことを中心に考えるのはごく当たり前のこと。言われたことしかしていなかったら、褒められることは当然ありません。その関係は、天の父と私たちとにそのまま当てはまるのだ、とイェスは教えられたのです。

 

こういうことを悟ったソロモンも、「伝導の書」の最後を、次の言葉で結んでいます。

「事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである。」

 

しかし、私たちの主イェスは、忠実なしもべを褒め言葉で迎えられると教えられています。

「忠実なしもべよ、よくやった」と。

ただし、私たちが人間中心の信仰生活ではなく、神中心の信仰生活を送るのであれば、のことですが。

八王子バプテスト教会通信-過去の投稿リスト