イェスの譬え話(23)「不正な管理人」(ルカ16:1〜13)
「不正な管理人」と呼ばれるこの譬え話、下令が冒頭からクビになります。しかし、不正を働いてクビになるのではありません。ある金持ちの財産を扱う人むが与えられていたのですが、どうやらその仕事に見合うだけの能力がなかったのか、あるいはいい加減な仕事をしていたのか、あちこちで損失を出すようになってしまったようです。実際に、業務上横領にあたるようなことをしていたなら、単にクビになるだけでは済まされず、返済のために労役に回されていたはずです。しかし、クビを言い渡されているだけということは、単にその仕事に向いていなかったということでしょう。
こういう辞めさせられ方をしたら、他に誰も雇ってくれません。その他の選択肢としては肉体労働者になるか、物乞いをするかですが、彼にとってはどちらも受け入れがたいものです。そこで捻り出した案が、自分のご主人に負債のある人たちを味方につけようとするものでした。彼らの負債を勝手に減額したのです。
ひとつの解釈では、主人は暴利な利益を出していたので、この下令は正規の額に変えていただけだと言います。しかし、イェスは彼が「不正」であると言い切っています。自分の雇用期間が終了するまでの時期を使って、自分の裁量の範囲内で減額して味方を作ったのです。ご主人はこのことを知った時、「してやられた」と苦笑します。
さて、この譬え話の結びは、「神と金とに兼ね仕えることはできない」です。そのためには物欲を捨てて無一文になって信仰だけを持ちなさい、という譬え話が用いられているのではなく、むしろ正反対の譬え話が使われています。ここでポイントになるのが、イェスの言葉です。
「この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう。」
イェスは、この世の子らは金に関しては光の子らよりも上手にやっていると言われています。しかも、それは光の子らを全くほめていないのです!むしろ、「お金のようにこの世のものが使いこなせないようでは、天のことを任せるわけにはいかないだろう!」との叱責です。
だから、この世のお金を使って、他人との信用関係を作りなさい、と言われています。そうすれば、お金に困ったときには彼らが「永遠の住まい」に迎えてくれるというのです。
このように、不正な下令をほめ、汚いお金で人間関係を構築するとは、イェスの「失言」ではないか、だからイェスを失言から名誉挽回しなければならない、とここ二千年の間、様々な解釈が施されてきました。
しかし実際、イェスは失言はされていません。イェスは私たち人間にかばってもらう必要などありません。この話には意図と意味があり、他の譬え話とは違うことを教えているのです。ですので、そのような解釈を作ってイェスを失言から救済しようとすることは、つまりイェスの話のポイントを見落とすことに他なりません。
そのような解釈のひとつには、「自分のお金を貧民に与えることによって、天に宝を積みなさい、そうすれば自分の宝が先回りして待ってくれているよ」と言いたかったのだ、というものがあります。そうすれば、彼らが「永遠の住まい」に迎えてくれるのだから、ということです。確かに、イェスはそのような話を何度もされました。しかし、この譬え話はどう見ても財産を貧民に分け与える話ではありません。この世でうまく立ち回ることの話です。では、「永遠の住まい」というのはどういうことでしょうか?
ここで使われている「永遠」という単語はギリシャ語の原文ではαἰώνιος(エイオニオス)という単語です。聖書では基本的に全て「永遠」という訳になっていますが、そもそもギリシャ語では「永遠」に限定された単語ではありません。直訳すると「時代の」という意味で、一過性の瞬く間になくなってしまうものと対比して「時代の終わりまで続くもの」を指しても使われます。そうなると、「天国にある住まい」に限定しなくても、「この世で最後まで困らない」という意味も十分にあり得ます。
さて、この話の本当のポイントにいきましょう。イェスの時代には、パリサイ派やサドカイ派のように、お金が大好きな人々がいました。お金を得るためにはどんな手段も選ばない、お金が入ったならそれは神に祝福された証拠だ、という考え方でした。一方、エッセネ派(聖書には直接登場しませんが、「死海の書」を保存したのもバプテスマのヨハネを育てたのもエッセネ派の人々とみられています)は、お金を汚いと見下し、軽蔑していました。イェスの話のポイントは、どちらも間違っている、目の前にあるものを賢く使いのが下令の仕事だ、というものでした。
私たち一人一人は、この世において神の下令です。目の前には様々なリソースがあります。お金だけではなく、時間、能力、人間関係などがあります。私たちはこういったものを毎日使いながら、神のしもべとして生きていかなければなりません。そして、これがポイントなのです。
・仕えるのではなく、使え。
・避けるのではなく、使え。
こうやって、私たちは天の父の子としてこの地上での責任を果たしていくのです。