イェスの譬え話(22)「放蕩息子」(ルカ15:11〜32)
あまりにも有名な放蕩息子の話です。二人兄弟の弟は、父に頼んで財産の生前分与をしてもらい、それを遠い地で豪遊で使い切ってしまいます。豚の世話という屈辱的な仕事をしながら、飢えに耐えています。そこで、父にもう合わせる顔はないが、家に帰って使用人にしてもらおう、と考え、帰ったところ、父が喜んで抱き上げ、豪華な祝賀会を開きます。それを聞いた兄が立腹し、父になだめられる、という話です。
この話に登場する放蕩息子とは私たち一人一人、父とは私たちの天の父、そして兄はイスラエルです。大まかな話は難しくありませんが、この譬え話は私たちにとって非常に重たい課題を2つ、突きつけているものなのです。
まず初めてこの話を読んだ人は、「そもそも、財産の分与などしなければよかったのではないか」と考えるでしょう。しかし、この父は弟に自由を与えました。ちょうど、私たちの天の父が私たちに自由意志と、判断や行動の自由を与えてくださっているように。そして、遠い地で散財している姿は、私たちがとても悪い生活に陥ったことの例えではなく、私たちが父からいただいたその自由意志を、自分の価値観で生きることに使ってしまっている状況です。自分にとっての自然体、自分の正義感、自分の人生哲学に沿った生き方。このような生き方が罪の生き方です。そして私たちはその中で、罪の中にいる自分の姿に気づいて我に帰り、父に許しを乞います。私の罪を許して、私を救ってください、と。
話の中の父は、来る日も来る日も、息子の帰りを待っていました。彼のことを思わなかった日はなかったでしょう。そして彼の姿を遠くから見つけて、走り寄って抱きつきます。弟は使用人になってもいいと考えていたのに対して、父は大喜びで彼に家の家紋が入った服を着せて家の紋章の指輪を指にはめて、大きな祝事のために太らせておいた牛を料理させ、宴会を始めます。
これを聞きつけた兄は、父の財産を遊びで費やした弟のための宴会であることを聞き、怒り心頭です。兄は、非常に真面目な性格だったので、不真面目なことには厳しいです。不真面目な弟ががご褒美をもらうなど、断じて許せません。兄は、正義感の強い、正しい人だったのです。そのために、弟に向けられた父の愛とゆるしを認めず、子の立場でありながらいわば父の権限に対して歯向かったのです。
正しい人がたしなめられ、放蕩息子が喜ばれるとは、やはりキリストのメッセージは、正しさより愛、ということでしょうか?
いいえ、そうではありません。すべての人が神の前に正しく生きることが大前提なのです。弟も、帰ってきたからには、今後は正しく生きなければなりません。
「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。」(マタイ23:23)
公平、あわれみ、忠実があれば正しさが見逃されるのかといえば、そうではありません。当然のように求められます。いくら正しくても、それが父を喜ばせるわけではなく、人を義とするわけでもなく、あくまでも当たり前のものとして求められます。
しかし、私たちは常に正しく生きることがなかなかできません。毎日罪を犯してしまいます。父は怒りませんか?
私たちがそれをそのままにしておけば、当然怒ります。しかし、私たちが罪を悔い改めれば、喜んで私たちをまた受け入れます。だから、「罪を犯さないように気を付ける」ことは大切なことなのですが、「悔い改めが必要でない完璧な正しい人」であろうとすることは見当はずれなのです。それをパリサイ人たちがしてしまっていたのです。
それに対して、父は大変な罪を犯してきた弟を、喜んで迎え入れたのです。そして、そうしない兄をなだめます。父が許して受け入れた者を受け入れないというのは、父から見ればあってはならないことです。これが、イェスのいくつもの譬え話のテーマ、そのほかいくつもの箇所に教えられていることです。人をさばくな、自分がさばかれたくないのであれば。自分が赦されたのだから、他人をも赦すべき。
マタイ25章の、最後の裁きのときの話で、イェスは「小さい者」が困っているときにそれに対して助けてあげなかった人々に対するご自身の強烈な怒りについて語っています。主は私たち一人一人が何よりも愛おしく、そのような者に対しする攻撃を、ご自分に対する攻撃として捉えられるのです。
今日の大きな2つの課題、それは正しくあるべきこと、そしてそれ以上に愛とゆるしを持つことです。