八王子バプテスト教会通信

4月19日のメッセージ 2020年4月18日

イェスの譬え話(21)「失われた銀貨」(ルカ15:8〜10)

前々回に続いて、無くし物の話です。以前は見失った羊でしたが、今度は銀貨です。女性が銀貨を十枚持っていましたが、一枚を無くしてしまいます。そこで、灯りを灯して、無くした銀貨が見つかるまで家中を掃きます。ようやくその銀貨が見つかると、大喜びで隣人や友人を呼び集めます。

分かりやすそうな譬え話ではありますが、私たちがさらっと読むよりも深い内容なのです。ここで無くした銀貨とはドラクマ貨幣、一日の日当分のお金です。確かになくしたらばショックです。しかし、この貨幣は家計の蓄えの一部とか、この女性のへそくりだったとか、そういう性質のものではありません。おそらく、この女性が嫁いだときの結納金の一部で、十枚とも糸か紐などで繋いで、首飾りにして常に首から下げていたものと思われます。

今でも、イスラム文化の一部でこのような風習があります。それには理由があります。戦前の日本もそうでしたが、歴史的に中東においても、男性が妻を離縁することは非常に簡単なことでした。それを言い渡された女性は、何もできず、出ていくしかありません。今では離婚ということになると、女性は裁判所に訴えて、今まで夫だった男の資産のいくらかを分けてもらえる制度がありますが、当時はそのようなものがありません。何も持たず、その家を去らなければなりません。ただし、身につけている物は別です!だから、女性は家にいる時、全財産を必ず身に付けていました。今のイスラム文化でも、このような「資産飾り」が使われています。

そうなると、この銀貨は単に一日分の食費とかそのようなものではありません。思い出が詰まった、掛け替えのない銀貨なのです。いくら夫が「9枚残ってるからいいじゃないか」とか「僕が稼いで代わりのをあげるよ」と言っても、聞くはずもありません。あの銀貨が見つかるまで、必死に探し続けるのです。羊飼いが命がけで羊を探すように、彼女もその銀貨を探し続けます。

そして見つかると、大喜びで隣人や友人を呼び集めて、お祝いの食事を振舞います。貧しい家庭の場合には大したごちそうは出せないかもしれませんが、必ず何か振舞います。ここで、この話の冒頭、イェスがこれら一連の話をするきっかけになった出来事とつながります。宗教指導者たちのパリサイ人が「罪人」とさげすんでいた人々と一緒にイェスが食事をしていたことを批判したことに対するイェスの反論です。

パリサイ人達は、自分たちは悔い改める必要がない、清い存在であると自負していました。本当にそうであればよかったのですが、実際はそうではありません。形式上の清さと、都合解釈による律法への不抵触があるのみでした。より重要な公平、あわれみ、忠実をそっちのけにしていました。一番悔い改めなければならない人々でした。しかし、かつては熱心なパリサイ派だった使徒パウロも言っているように、自分が正しいと信じて全く疑いません。だから、イェスは彼らに対して強烈な皮肉を浴びせます。
「お前らは完全に清くて正しいから、神の救いも全く無用だろうよ。だけれど、こちらは失われた羊、失われた銀貨が見つかったんだ。この食事は、その祝賀会なんだ。今頃、天国では大喜びの大騒ぎになっている。この祝賀会に用がない奴は、口出しをするな。」

失われた羊の時と同じように、私たちが常に覚えておかなければならないことがあります。それは、私たちがいくら軽蔑する人であっても、あるいは私たちはいかに自分に自信がなくても、一人一人が神にとってはかけがえのない宝物、愛する我が子なのです。人を過小評価しない、自分を過小評価しない。

この話は、「放蕩息子」の話に続いていきます。

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