復活祭礼拝 「心の絆」(ヨハネ20章)
週の最初の日マグダラのマリヤは墓地で悲嘆に暮れています。エルサレム入りをした時点で死を覚悟していた弟子達とは違って、彼女はイェスの十字架の直前までことの経緯を知らず、イェスの逮捕の電撃ニュースを聞いて大慌てで駆けつけたところ、そのまま十字架での処刑を目撃することになったのでしょう。
そもそも、マグダラのマリヤとは誰でしょう?約1400年前に、ローマ法王のグレゴリオス一世がマグダラのマリヤと娼婦のマリヤを混同するようなメッセージをしてから、そのイメージがついてしまっていますが、全くの別人です。同時、女性の4人に一人がマリヤという名前だったので混同しやすいのですが、マグダラのマリヤはガリラヤ地方に住む裕福な女性で、イェスの活動を資金や人脈でサポートしていました。今風にいえば、サポーター的な「お金持ちのおばちゃん」的な存在です。
イェスに悪霊を追い出してもらったことに対する感謝と、この人こそメシアに違いないという気持ちから従ってサポートしてきたのでしょうが、その関係はあまりにも急に終わりました。私たちにとって、死とは多くの場合そういうものです。長い時間をかけて愛する人の最後を見とることもありますが、多くの場合は、あまりにも急な知らせが飛び込んできて、唖然とするものです。先日、志村けんさんがなくなったとき、そのあっけなさに驚いた人が多かったのではないでしょうか。自分たちが子供の頃からずっとテレビで見てきて、いつでもそこにいた存在が、急にいなくなったことに対して、気持ちの整理がつかないままでいるファンも多いことでしょう。
私も今年に入って、長年仕事を一緒にしてきた友人の奥様から寒中見舞いが届きました。友人は、去年の暮れに亡くなったとのことでした。あまりのあっけなさに、数分間、事態が理解できずにいました。経緯はどうであれ、もう一緒に仕事をすることはない、最後の仕事の後に車で駅に送ってもらって握手したのが最後だったんだ、と考えると、やりきれない気持ちになりました。
まさに、「人の最後は、魚が漁師の網にかかりたるが如し。」ソロモンの言う通りです。
人が亡くなる理由がなんであれ、それが大病であっても不注意からの事故であっても、その事実は永遠に変わらないのです。
マグダラのマリヤもそうでしょう。せめてイェスの埋葬の香油を塗ってあげようと思って墓地に行きますが、からになっています。ヨハネとペテロを呼んで確認してもらいます。彼らは現状を確認し、不思議に思って帰って行ってしまいますが、彼女はそこに残って泣いています。
これにいくらか似たシーンが、ラザロが亡くなったときの記録に見られます。イェスを迎えたマルタは、先生が来てくだされば亡くならずに済んだのに、と気持ちをぶつけます。悔しくて悲しくて仕方がないのです。イェスは、ラザロはまた生きるよ、と言っても、それはどうせオラム・ハバ(最後のよみがえり)でしょう、私は今また会って抱きしめたいんだ、と感情をぶつけます。確かに、信仰以前にこのような気持ちが湧き出てくるのも自然なことでしょう。イェスはこの場ではラザロを生き返らせましたが、このようなことは滅多になく、長いお別れになってしまいます。
そのようなマグダラのマリヤの後ろに、よみがえったイェスが立っています。マリヤはイェスとは気づかずに、墓苑の管理者と思って、イェスの遺体は自分が引き取る、と言い出します。憎悪が渦巻くエルサレムから、イェスが青春時代を過ごしたガリラヤ地方に連れ帰って手厚く葬りたい、これが愛したイェスのためにできる精一杯のことだったのでしょう。イェスは一言、
「マリヤ」
と声をかけます。
イェスと悟り、大喜びで抱きつこうとするマリヤに、イェスは「私に触れてはいけない」と言います。なぜでしょう?よみがえった体はきゃしゃですぐに壊れてしまうのでしょうか?
いや、そういうわけではありません。ただ、よみがえったイェスの体に固執してはいけないのです。固執すべきはイェスが何のために十字架にかかって死に、埋葬され、よみがえったのか。固執すべきはイェスが天に帰った後、地上に何を残すのか。それは、ご自分の永遠の体である、教会という人々の集まりです。
教会とは、イェスが地上で始めた働きを継続するためにこの地上に残したご自分の体です。私たちは、2000年前のイェスを見ることはできませんが、誰でもイェスを信じ、聖書の教えに従ったバプテスマを受けることにより、その体の一部になることができるのです。
今、コロナウイルスのため、世の中は大変不安な状態になっています。実際にコロナウイルスで亡くなる人の数より、経済の失速から命を落とす社会的弱者が多くなるのではないかという見方もあります。ひょっとすると、私たちの近くでも、知り合いや愛する人があっけなく亡くなってしまうこともありえます。
しかし、私たちはこの地上での営みは非常に短いこと、そしてその後に永遠が待っていることを知っています。そこで私たちは愛する仲間、そして愛するイェスと共に永遠を過ごすのです。目の前の不安ではなく、そこに目を注ぎましょう。