八王子バプテスト教会通信

4月5日のメッセージ 2020年4月5日

イェスの譬え話(20)「仲間を許さない僕」(マタイ18:21〜35)

イェスの譬え話の学びを続けます。今日は、「仲間を許さない僕」です。2人の負債者がいるという点では「2人の負債者」の譬え話と似ていますが、全く別の話です。その譬え話が話されるきっかけになった出来事も違います。「2人の負債者」の場合は、多くの罪を許された人の方が、許してくれた人をより強く愛するだろう、というものです。
それに対して、「仲間を許さない僕」の譬え話が話されるきっかけになったのが、イェスに対するペテロのちょっとした質問からでした。
「先生、誰かに悪いことをされた場合、何回まで許してやらないといけないですか?7回ですか?」
実は、ペテロはこの質問にある狙いがありました。というのは当時のユダヤ教では、人が自分に対して罪を犯しても、謝ってきたら3度までは許してやりなさい、という考え方がありました。ペテロは3回を7回まで引き上げれば、イェスから、心が広いいいヤツだとほめてもらえるものと考えていたのでしょう。しかし、イェスの答えは意外なものでした。
「7回じゃない。7の70倍だ。」
計算すると、490回です。かなりの回数許さなければなりませんね。
ただ、これは文字通りの数字ではありません。例えば日本語で「八百万(やおよろず)」や「八千代(やちよ)」と言ったりするように、「数えても意味がないくらいの大きな数字」を指します。そして、この点が実際に譬え話の中に生きてきます。

話に登場する、国王に使える僕は、負債があり、また同僚にもお金を貸しています。その負債は1万タラント、仲間に貸していたお金は百デナリ。この僕は自分の1万タラントの負債を主人に許してもらいながら、仲間に貸していた金を厳しく取り立てて、その話を耳にした主人の逆鱗に触れるというものです。

さて、時々この1万タラントと百デナリを現代のお金にするといくら?という話もありますが、実は見当違いな議論です。これは2つの負債の量的な比較ではなく、質的な比較だからです。具体的な数字は別として、1万タラントは国家の首都の年間予算レベルの話です。どうやってこのような負債を背負ってしまったのか?譬え話なので深く考えなくてもいいのですが、ポイントは、『返済が絶対的に不可能な負債』という性質の負債です。
それに対して、1デナリは単純労働者の日当にあたるため、百デナリは今すぐ返せなくても、ボーナス時まで待ってもらえるなら問題なく返せる金額です。『返済が確実に可能な負債』です。逆に、自分のとてつもない負債を許してもらった僕からすれば、棒引きにしてあげても平気な金額です。

この譬え話の僕は私たち一人一人です。私たちの罪と言う無限の負債を帳消しにするために、罪のない神の化身イェスは私たちの身代わりとして十字架でご自分の命を捨てられました。だから、人間を作り、人間のためにご自身を犠牲にされた方だけが、罪を許すことができるのです。神に罪を許されたのだから、他の人も許してあげたほうがいいよ、という話ではありません。人間には、そもそも他人を許すとか許さないとかいう権限そのものを持っていないのです。

それでは、持っていない権限を持っているかのように感じてしまう私たちは、何者なのでしょうか?どうしてそのようなことをしてしまうのでしょうか?
実は、この「他人を許さない」という自然な気持ちは、私たちが考えるよりも、おぞましいルーツがあります。私たち人間には、光の側面と闇の側面があります。光の側面は、私たちが天の父に創造された、本当の父に帰りたい、和解したい、というものです。闇の側面は、私たちが自己中心的になったり、自分の考え方や気持ちを押し通したい、自分の価値観に基づいて生きたい、「自分大好き」なものです。では、この闇の側面はどこからきているのでしょうか?それは、この世で活動する、「中空の君」と呼ばれる悪魔の影響です。

悪魔は初めから悪魔だったわけではありません。どの天使よりも美しく力強い至上天使ルシファーがどのように堕落して悪魔になったかは、イザヤ14:12〜21に記録されています。簡単にまとめると、自分の地位に満足できず、神の地位を狙ったのです。私たちの闇の部分はこのようなところから来ているのです。

私たちが人を許さないと考えた時、それはちょうどルシファーが神の権威に挑戦した時のように、私たちが神の権威に挑戦している行為なのです。もちろん、私たちは実際にルシファーのように神に立ち向かうことはできませんが、行為の実態として見れば同じです。
だから、神は本気で激怒するのです。自分の愛する子たちが、また愚かなことをして自分達に不幸を呼び込んでいるからです。

もちろん、私たちの周囲には、罰せられるべき許せない行為が多々あります。しかし、私たちはそれらに対し直接復讐しません。警察に任せるもの、そして正当な裁き主である神に任せるもの、様々です。しかし、その個人を憎んだり恨んだりする資格は私たちにありません。

そればかりか、私たちは自分がどれだけ大きな負債を許されたのかを思う時、他人の小さな負債を許してあげることほど当然なことはないでしょう。
「だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。 互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい。キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。 そして、あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい。」
コロサイ3:12〜17

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