なぜ死を恐れるのか
「このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。」
ヘブル2:14〜15
今日はまたイェスの譬え話のテーマを離れて、現在世界で起こりつつある状況に目を向けたいと思います。
二週間前にこのことについてお話しした時点からかなり深刻な状況へと進んでいるように報道されています。特にヨーロッパの感染拡大が凄まじく、何千人もの死者が短期間で出ています。今回の新型コロナウイルス流行のひとつの特徴は、医療崩壊した地域における死亡率が高く、これがパニックに拍車をかけています。私たちは、死亡率さえ低いのであれば、逆にほぼ全員が感染すると言われても、仕方ない、ゆっくり治せばいい、と考えるでしょう。しかし、「死」の一文字が出てくると、私たちの心理が一変します。そこで今日は、人間がなぜ死を恐れるのかということ、そしてクリスチャンが持つべき姿勢というものを考えてみたいと思います。
人間は本能的に死を恐れます。ヘブルの2:15では、私たちは死を恐れるために、一生生きている間、奴隷になっていると述べています。なぜそこまで死を恐れるのでしょうか?
・ひとつに、死は不可逆的なものであることを理解しているからです。病気になっても治るだろうし、怪我しても癒えるだろう、しかし一旦死んだなら何をしてもそこからは帰ってきません。絶対的なものです。
・また、私たちは死後の世界がどのようなものであるのか、わかりません。知らないところに入っていくよりは、人間は理解し安心できるところに留まろうとします。
・さらに、死は別れである、と私たちは本能的に認識します。これは今から旅立とうとする人にとってもそうですが、それを見送る方にとっても大変辛いものです。また向こうで会おうね、と言い合える仲であっても、昨日まで傍にいた人がこれから何十年もいなくなると考えたなら、恐ろしく寂しく空虚な気持ちになるでしょう。
私は先日、不思議な夢を見ました。
夢の中で、車で出かける用事があったため、妻に「行ってくる」と言って家を出ました。
しかし、駐車場には車がありません。不思議に思って家に戻ると、家は空き家になっていました。呼んでも、誰もいません。家具も荷物もなく、長年人が住んでいた形跡もありません。
どういうことだろう、と途方に暮れていると、一台の車がやってきます。どうやら私のお迎えのようです。ソーシャルワーカーのような人が降りてきて、私を指して言います。
「おじいちゃん、ボケちゃってるから、必ずここに来ちゃうんだよね。」
その時、夢の中で私は認知症か何かの記憶障害で、先ほど家を出た記憶が何十年も前のもの、その間に何があったのかは全く覚えていない、ということを悟りました。
理解はできたのですが、夢の中でも喪失感は強烈なものでした。私の妻はどうなった?私の子供たちはどこにいる?最後にさようならも言えなかったのか?私はひとりぼっちだ!
と、ここで目が覚めました。
それで認知症でホームに暮らしている父が時々不安になって電話をかけてくるのは、ああ、こういうことなのかな、と考えました。
このように、愛する者から突如引き離されることは、私たちにとって大変な恐怖なのです。
・そしてもうひとつ、私たちは魂のレベルで、死に対してもうひつと大きな不安を持っています。それは、「罪の支払う報酬は死である」とあるとおり、私たちが死ぬのは罪のためであるし、自分の罪が死後なおも自分を苦しめるのではないか、という魂の不安です。
「死のとげは罪である。罪の力は律法である。」Iコリント15:56
私たちがイェスを信じ受け入れたならば、そこで私たちの罪は十字架の地の力によって赦され、さらに私たちが日々犯してしまう罪に対しても赦しの道が開かれました。しかし、私たちはそれに見合ったような生き方をしているでしょうか?罪が許されるから、清く生きなくても平気だ、というような気持ちがどこかで働いていないでしょうか?クリスチャンとして恥じることなく神の身座の前に立つには、罪の赦しに加えて、善良な良心にとがめられないような生き方をすることも重要です。
私たちが、死後に何が待っているのかについての知識をきちんと持ち、そこで恥いらないような生き方をするならば、死は私たちの人生を支配することができなくなるのです。
「兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう 」Iテサロニケ4:13〜14
※最後に:20世紀においては、何百万人も殺害された共産主義革命が世界各地でいくつも起きました。その標的にされたのは資本主義者たちだけではなく、クリスチャンもそうでした。国によっては、革命軍の兵士が家々に殴り込んできて、「キリスト教を否定して共産革命に忠誠を誓わなければこの場で一家を殺すぞ」と脅されることも多々あったと言います。その中でのクリスチャン家庭は、驚くほど無抵抗だったそうです。
「明日は朝起きて学校かと思ったけど、明日朝はみんな天国だね」というように。
自分が行く先がはっきりとわかっている神の子には、死の脅しも全く通用しないことが分かったのです。初代教会においてもそうでしたし、今日もそうです。