み言葉を託された者:アモス(5)
わたしは祭壇のかたわらに立っておられる主を見た。主は言われた、「柱の頭を打って、敷居を震わせ、これを打ち砕いて、すべての民の頭の上に落ちかからせよ。その残った者を、わたしはつるぎで殺し、そのひとりも逃げおおす者はなく、のがれうる者はない。たとい彼らは陰府に掘り下っても、わたしの手はこれをそこから引き出す。たとい彼らは天によじのぼっても、わたしはそこからこれを引きおろす。たとい彼らはカルメルの頂に隠れても、わたしはこれを捜して、そこから引き出す。たとい彼らはわたしの目をのがれて、海の底に隠れても、わたしはへびに命じて、その所でこれをかませる。たとい彼らは捕われて、その敵の前に行っても、わたしはその所でつるぎに命じて、これを殺させる。わたしは彼らの上にわたしの目を注ぐ、それは災のためであって、幸のためではない」。万軍の神、主が地に触れられると、地は溶け、その中に住む者はみな嘆き、地はみなナイル川のようにわきあがり、エジプトのナイル川のようにまた沈む。主はご自分の高殿を天に築き、大空の基を地の上にすえ、海の水を呼んで、地のおもてに注がれる。その名は主ととなえられる。主は言われる、「イスラエルの子らよ、あなたがたはわたしにとってエチオピヤびとのようではないか。わたしはイスラエルをエジプトの国から、ペリシテびとをカフトルから、スリヤびとをキルから導き上ったではないか。見よ、主なる神の目はこの罪を犯した国の上に注がれている。わたしはこれを地のおもてから断ち滅ぼす。しかし、わたしはヤコブの家をことごとくは滅ぼさない」と主は言われる。「見よ、わたしは命じて、人がふるいで物をふるうように、わたしはイスラエルの家を万国民のうちでふるう。ひと粒も地に落ちることはない。わが民の罪びと、すなわち『災はわれわれに近づかない、われわれに臨まない』と言う者どもはみな、つるぎで殺される。その日には、わたしはダビデの倒れた幕屋を興し、その破損を繕い、そのくずれた所を興し、これを昔の時のように建てる。これは彼らがエドムの残った者、およびわが名をもって呼ばれるすべての国民を所有するためである」とこの事をなされる主は言われる。主は言われる、「見よ、このような時が来る。その時には、耕す者は刈る者に相継ぎ、ぶどうを踏む者は種まく者に相継ぐ。もろもろの山にはうまい酒がしたたり、もろもろの丘は溶けて流れる。わたしはわが民イスラエルの幸福をもとに返す。彼らは荒れた町々を建てて住み、ぶどう畑を作ってその酒を飲み、園を作ってその実を食べる。わたしは彼らをその地に植えつける。彼らはわたしが与えた地から再び抜きとられることはない」とあなたの神、主は言われる。
アモス書9章
最後に、イスラエルは救われ、復興されます。しかし、その前には、かなり徹底的に叩かれます。しかも、それは全くもって無意味で不必要だったのです。彼らはそれを避けるための行動が取れたし、そうする様に何度も預言者たちを通して勧められましたが、その道には入ろうとはしませんでした。いくら宗教的な義務を達成していたにしても、社会として公平と正義とを達成できていなければ神はその存在を忌み嫌う、というのがアモスのメッセージです。
この様に、アモス書の大半はイスラエルとユダの裁きについて書かれたものですが、その中には、どの様に考えれば良かったのか、ということについても興味深い箇所があります。
わたしはあなたがたの祭を憎み、かつ卑しめる。わたしはまた、あなたがたの聖会を喜ばない。たといあなたがたは燔祭や素祭をささげても、わたしはこれを受けいれない。あなたがたの肥えた獣の酬恩祭はわたしはこれを顧みない。あなたがたの歌の騒がしい音をわたしの前から断て。あなたがたの琴の音は、わたしはこれを聞かない。公道を水のように、正義をつきない川のように流れさせよ。
アモス書5:21〜24
アモス書5:24は、60年代のアメリカの公民権運動でもよく使われた箇所です。しかし、聖書で「川」というのは、通常は神のみめぐみを表すのに使われる言葉です。
このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。
詩篇1:3
一つの川がある。その流れは神の都を喜ばせ、いと高き者の聖なるすまいを喜ばせる。
詩篇46:4
これはどの様に考えれば良いのでしょうか?先週の内容に鑑みて、こう考えられるのではないかと思います。彼らがこの様な事態に陥ってしまったのは、周囲の民族に倣ったからであるということを先週学びました。それに対して、神の前に認められ、受け入れられる様になるには、神に倣うものになれば良いのです。
こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。
エペソ5:1〜2
「倣う」というのは、「模倣する」ということです。単に模倣するだけだったら真似事じゃないか、と思われるかもしれませんが、そういうわけでもありません。私たちの社会でも、音楽、芸術、舞台などで弟子が師匠を模倣できる様になるのに、何年、何十年もかかります。そもそも、模倣するためには、その模倣する相手について相当知り、相当研究しなければできません。ある意味、倣うというのは、上っ面の真似をするのではなく、その真髄を捉えなければ全く叶わない、非常に本質性の高いものなのです。イェスはこの様なことを言われています。
弟子はその師以上のものではないが、修業をつめば、みなその師のようになろう。
ルカ6:40
そして、弟子が師匠に似ていくプロセスが短期間に起こるのではなく、長い歳月をかけて達成させるのと同じ様に、私たちも徐々にみ姿に似たものに変えられていくのです。
わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。
IIコリント3. :18
今日の教会は、ラオデキヤの教会、またコリントの教会に似ていると言われています。周囲に感化され、周囲に倣い、周囲に同化してしまっているのです。それに対してどうすれば良いかといえば、主を見て倣うことによって変えられていくことです。
もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう。
ヨハネ14:15〜21
この様に生きるのであれば、変わることを望んでいても望んでいなくても、み姿に似たものに変えられていくのです。生涯続くプロセスです。そしてその中で、人間の力ではなかなかできないと思われることが自分の身に起こっていることに気づくのです。
人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、それくらいの事はしている。また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである。しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。
ルカ6:31〜36