八王子バプテスト教会通信

6月5日のメッセージ 2022年6月5日

み言葉を託された者:エリシャ(1)

町の人々はエリシャに言った、「見られるとおり、この町の場所は良いが水が悪いので、この地は流産を起すのです」。エリシャは言った、「新しい皿に塩を盛って、わたしに持ってきなさい」。彼らは持ってきた。エリシャは水の源へ出て行って、塩をそこに投げ入れて言った、「主はこう仰せられる、『わたしはこの水を良い水にした。もはやここには死も流産も起らないであろう』」。こうしてその水はエリシャの言ったとおりに良い水になって今日に至っている。

II列王紀2:19〜22

 

これはエリヤが取り去られた直後の出来事です。エリシャはエリヤに対して、エリヤの霊の倍を継ぎたいと申し出て、その通りになりました。倍の奇跡を行います。しかし全体を通しての活動に、大きな違いがあります。それは、エリヤが神出鬼没的に現れては国王を断罪し、また逃亡生活に戻ったのに対して、エリシャは非常に社会的な人物でした。民を助け、兵士を助け、王を助けることもありました。そうすると、弟子のエリシャの方が、エリヤより立派だったのでは?少なくとも私はそういうエリシャの方が好きだが?という話になりません。そうなってはいけないこと、なぜそうなってはいけないのかが、今日のポイントです。

 

そもそも、エリヤは好き好んで逃亡生活を送っていたわけでもありませんし、好きで王を断罪したわけでもありません。自分が突如置かれた場所に当惑しながらも、主の命に従って生きていただけなのです。旧約・新約を通して、神に用いられていた人々が多く存在しましたが、どの人物も、神がご自身の完全なご計画のために不完全な人間を用いられたのです。

 

このことが正しく理解されないのはどの時代も同じなのですが、使徒時代のコリントの教会で問題になっていたことが記録されています。

 

さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたに勧める。みな語ることを一つにして、お互の間に分争がないようにし、同じ心、同じ思いになって、堅く結び合っていてほしい。わたしの兄弟たちよ。実は、クロエの家の者たちから、あなたがたの間に争いがあると聞かされている。はっきり言うと、あなたがたがそれぞれ、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケパに」「わたしはキリストに」と言い合っていることである。キリストは、いくつにも分けられたのか。パウロは、あなたがたのために十字架につけられたことがあるのか。それとも、あなたがたは、パウロの名によってバプテスマを受けたのか。わたしは感謝しているが、クリスポとガイオ以外には、あなたがたのうちのだれにも、バプテスマを授けたことがない。それはあなたがたがわたしの名によってバプテスマを受けたのだと、だれにも言われることのないためである。もっとも、ステパナの家の者たちには、バプテスマを授けたことがある。しかし、そのほかには、だれにも授けた覚えがない。いったい、キリストがわたしをつかわされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためであり、しかも知恵の言葉を用いずに宣べ伝えるためであった。それは、キリストの十字架が無力なものになってしまわないためなのである。

Iコリント1:10〜17

 

コリントの教会の人々は、使徒たちをアイドル化した上で、どのアイドルが一番好きかで党派を組んでいたのです。これは、実は人間にとって非常に自然な行動なのです。それは別の意味で、自分に影響を与えうると思われるものをどのように理解しようとするかの行動でもあるのです。聖書の他においても、様々なところで私たちは有名人や著名人をこのようにアイドル化したりして「わかりやすく」した上で、ファンになったりアンチファンになったりします。バロックの時代には、新聞がバッハとヘンデルを格好のネタとして対決させましたし、20世紀冒頭ではサティとドビュッシーも同じような扱いを受けました。私が記憶している昭和の時代の音楽界では、アイドル派のファンとフォーク派のファンが激しく対立し、マスコミがこれを煽ぎ、これで稼いだのです。

 

ポイントとして、ひとつにこれは人間の自然な習性であるということ、それから、それを利用する存在がいる、というふたつの点が浮かび上がってきます。

 

人間にとって自然な習性であるということは、別の言い方をすれば、「肉の欲」であるのです。自然かもしれませんが、それは神の儀をまっとうすることはできません。「アイドル」という単語の語源は、「偶像」であることにも着目です。

 

それから、そのような私たちを利用する存在とは、悪魔に他なりません。教会の中においても、人の思いで分派分裂を起こすことができれば、その群れは急速に主の働きができなくなってしまいます。そうすれば、悪魔に一人勝ちです。私たちにとって自然な思いを持ち自然な行動をとることをさせることができれば、悪魔は主の働きを、私たちの中で食い止めることができるのです。

 

だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない。あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。しかし、神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教の基準に心から服従して、罪から解放され、義の僕となった。わたしは人間的な言い方をするが、それは、あなたがたの肉の弱さのゆえである。あなたがたは、かつて自分の肢体を汚れと不法との僕としてささげて不法に陥ったように、今や自分の肢体を義の僕としてささげて、きよくならねばならない。

ローマ6:12〜19

 

しかし、私はこの有名人は好き、あの人は嫌い、と思う気持ちをこんな風に言われても、それは大げさすぎないか?と思われるかもしれません。これこそが、肉の思いの一番恐ろしいところなのです。それは、私にとって自然なもので、しっくり来るからです。

 

それに対して、神の御用のために立てられる人物は、大抵、当惑し、不完全な人間として戸惑いながらもその役に当たっています。エリヤのように。長年、当教会の牧師を努めて去年天に召されたカールトン前牧師も、当初は南米に宣教師に行くつもりだったのが、突然主に日本行きに任命され、大変当惑したと語っていました。私も、不完全なところだらけです。

 

完全な神の僕とは、どのような存在でしょうか?と考える前に、私たちが持つ基準と神が持つ基準の違いを認識する必要があります。「完全」に関する神の基準は非常に厳しいのです。

 

わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。

イザヤ55:8〜9

 

それでは、誰も神の器になれないじゃないですか!いや、神は器を選ばれるのに別の基準を用いられることを知るべきです。

 

あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい。

マタイ11:11

 

というわけで、主に用いられる器とは、完璧な存在ではなく、「完全に委ねられた、不完全な存在」であることを覚えておく必要があります。この先の聖書研究の中においても、教会の中においても、大切な点です。

 

わたしはまた主の言われる声を聞いた、「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」。その時わたしは言った、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。

イザヤ6:8

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