八王子バプテスト教会通信

5月1日のメッセージ 2022年5月1日

み言葉を託された者:エリヤ(1)

ユダの王アサの第三十八年にオムリの子アハブがイスラエルの王となった。オムリの子アハブはサマリヤで二十二年イスラエルを治めた。オムリの子アハブは彼よりも先にいたすべての者にまさって、主の目の前に悪を行った。彼はネバテの子ヤラベアムの罪を行うことを、軽い事とし、シドンびとの王エテバアルの娘イゼベルを妻にめとり、行ってバアルに仕え、これを拝んだ。彼はサマリヤに建てたバアルの宮に、バアルのために祭壇を築いた。アハブはまたアシラ像を造った。アハブは彼よりも先にいたイスラエルのすべての王にまさってイスラエルの神、主を怒らせることを行った。彼の代にベテルびとヒエルはエリコを建てた。彼はその基をすえる時に長子アビラムを失い、その門を立てる時に末の子セグブを失った。主がヌンの子ヨシュアによって言われた言葉のとおりである。ギレアデのテシベに住むテシベびとエリヤはアハブに言った、「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられます。わたしの言葉のないうちは、数年雨も露もないでしょう」。主の言葉がエリヤに臨んだ、「ここを去って東におもむき、ヨルダンの東にあるケリテ川のほとりに身を隠しなさい。そしてその川の水を飲みなさい。わたしはからすに命じて、そこであなたを養わせよう」。エリヤは行って、主の言葉のとおりにした。すなわち行って、ヨルダンの東にあるケリテ川のほとりに住んだ。すると、からすが朝ごとに彼の所にパンと肉を運び、また夕ごとにパンと肉を運んできた。そして彼はその川の水を飲んだ。しかし国に雨がなかったので、しばらくしてその川はかれた。

I列王紀16:29〜17:7

 

さて、今週は最初の「迫害される預言者」となったエリヤから見ていきます。先週の、エリヤとエリシャの話に関しては、「名前が紛らわしい」というコメントを色々といただきました。確かに近いです。エリヤはヘブライ語で「我が神はヤハウェ(エホバ)」という意味、そしてエリシャ(元は「エリサ」)は「我が神は救い」という意味です。また、ヤラベアムとレハベアムも紛らわしいとのご意見もいただきました。実際、最初に投稿したメッセージの中にも、名前の入力ミスが数カ所ありました(今では修正されています)。大変失礼いたしました。

 

紛らわしいのは確かですが、歴史を扱っている以上は仕方ないので、何かしら語呂でも見つけて覚えるようにしましょう。

 

今日の聖書の箇所で、エリヤがいきなり歴史の表舞台に登場します。この時の北の国王はアハブで、南北分裂後の北の第七代国王です。初代ヤラベアムが、自らの立場を守ために偶像崇拝を北の国教にして以来、北の王はみな主の前に悪ばかりを行っていました。しかし、このアハブが飛び抜けて悪でした。シドンの王の娘イゼベルを妻に貰いますが、これがまた強烈な悪でした。二人で協力してイスラエルにバアル信仰を広め、バアル崇拝のための神殿を建て、バアルに仕える祭司たちを置き、そして神に使える預言者たちを弾圧します。

 

その悪に対して対峙するべく送り込まれたのがエリヤでした。テシベびとである以外、ほとんど情報はありません。ただ、「テシベびと」という人種や民族はなく、これは「寄留者」や「移民」を指すというのが大勢の見解です。そのような立場でいながら預言者として生活し、そしてイスラエルとユダにいたたくさんの預言者仲間の中から、神の目的のために抜擢された形です。

 

そしてある日、エリヤに神の命令が下ります。アハブに宣告しなさい、「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられます。わたしの言葉のないうちは、数年雨も露もないでしょう」と。

 

これには前例がありません。今まで、預言者が国王に対して厳しく苦言を呈したのは、バテシバに関する罪を隠し通そうとするダビデに対する預言者ナタンでした。その時は、ダビデは罪を悔いて懺悔します。アハブはどう対応するでしょうか?

 

エリヤのこの言葉は、普通に日本語や英語で聖書を読んでも気づかない要素がいくつかあります。特に、「雨が降らない」というのが大きなポイントです。というのは、古代中東では、バアル神は降雨、嵐、そして豊穣の神として崇められていました。また、「バアル」という名は、北西セム諸語では単に「主」という意味です。聖書でいう「エホバ」と同じ意味です。それに仕えているアハブ王の前に、「我が神はヤハウェ」という名の預言者が現れ、雨を降らなくするというのです。つまり、ヤハウェ(エホバ)の使いの方がバアルより力があり、バアルは無力だということを証明するぞ、というとんでもない内容の挑戦状を叩きつけるものだったのです。

エリヤはこのような指示を主から受け、その通りにします。ただ、その後の指示を受けていなかったので、アハブと対面した後は、神からの指示を待ちます。そして、指示が来ます。

 

「逃げろ。」

 

「えっ?」と思ったでしょう、エリヤは。家に荷物を取りに帰る時間があったかどうかはわかりませんが、あまりにも突然のライフスタイルの変化です。しかも、主からの指示の内容というのは、

 

・ケリテ川のほとりに身を隠せ。

・水はケリテ川の水を使えば良い。

・食物はカラスが持って来る。

・とりあえず生き延びろ。

・以上。

 

「ええ〜っ?」

という内容ですね。しかも、何よりも、このような生活がどれだけ続くのか、全く見当がつきません。当初は、これが数年越しのバトルになるとは想定していなかったでしょう。このような状況に置かれて、エリヤはめげないのでしょうか?実際、今後の話になりますが、エリヤは一度めげて、神にリヤイヤを申し出る場面があります。却下されますが。

 

こうすると、エリヤがスーパーマンのような超人ではなかったことが私たちにとって大きなポイントになってきます。

 

「エリヤは、わたしたちと同じ人間であったが、雨が降らないようにと祈をささげたところ、三年六か月のあいだ、地上に雨が降らなかった。」

ヤコブ5:17

 

私たちと同じような弱さを持った人間が、なぜこれだけ大きな神の御業を行うことができるのか?それは行っているのは人ではなく神だからです。ただ、その御業を取り次ぐ中で、しんどいこともたくさんあるかもしれません。エリヤがアハブと直面した日は大きなイベントでしたが、その後の任務というのは、身を隠して、見つからないように、ただただ生き延びるというものでした。しかも数年越しで。

 

私たちは、今の世界情勢において、未来が見通せなく、不安な状況にあるように思われます。しかし、私たちが将来を見通すことができるはず、未来は安定しているはず、ということ自体、妄想であり、錯覚であり、不信仰であるのです。将来を見通すことができるの神のみであり、私たちはその神から日々の糧をいただくのみです。

 

よく聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町へ行き、そこに一か年滞在し、商売をして一もうけしよう」と言う者たちよ。あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。むしろ、あなたがたは「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう」と言うべきである。

ヤコブ4:13〜15

 

来週は、エリヤとアハブの大対決がありますが、これで全て決着がつくわけではありません。少年マンガのような、単純明快の結論が待っているわけではありません。クリスチャンに何よりも必要なのが、大きなイベントを乗り越える力ではなく、何もない時間に、自分をまっすぐ主に向かって保ち続けることなのではないでしょうか。

 

しかしあなたがたは知るがよい、主は神を敬う人をご自分のために聖別されたことを。主はわたしが呼ばわる時におききくださる。あなたがたは怒っても、罪を犯してはならない。床の上で静かに自分の心に語りなさい。〔セラ

詩篇4:4〜5

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