八王子バプテスト教会通信

12月19日のメッセージ 2021年12月19日

聖日クリスマス礼拝メッセージ「闇を照らす光」

 

しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。あなたが国民を増し、その喜びを大きくされたので、彼らは刈入れ時に喜ぶように、獲物を分かつ時に楽しむように、あなたの前に喜んだ。これはあなたが彼らの負っているくびきと、その肩のつえと、しえたげる者のむちとを、ミデアンの日になされたように折られたからだ。すべて戦場で、歩兵のはいたくつと、血にまみれた衣とは、火の燃えくさとなって焼かれる。

ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。

イザヤ9:1〜7

 

イェスが、暗いこの世に、世の光として入ってこられたことは、クリスマスのメッセージの中心です。一世紀の歴史家ヨセフスは、イェスが入ってこられた社会についてこの様に書いています。

「その病は、耐えるには余りにもにも酷すぎるも、それを治す薬は、飲むには余りにも苦すぎた」

まさに暗黒ですね。さて、イェスがこられてから世の中は全て明るく、ハッピーになっているでしょうか?世の中が光り輝いているでしょうか?世界の歴史をその後見てもあまり大きく変わっていない様に見えます。キリスト教と名のつくものが世界に広がるも、そのもとでクリスチャンが弾圧される「暗黒時代」が繰り広げられていきます。後の世代のゲーテは言いました。

「人類が歴史から学んだことはただひとつ。それは、人類が歴史から何も学ばないことだ。」

いまだに、その暗黒が広がっているのです。では、世を照らすまことの光は、どうなってしまったのでしょうか?それが、今日のワンポイントメッセージです。

 

ポイントは、この世を照らすまことの光が、「どこ」を照らしたか、です。全世界を万遍なくでしょうか?確かに、イェスの光が届かないところはこの世にはありませんが、当時のユダヤの中でも、エルサレムの中でも、暗闇はありました。なぜなら、イェスの光が照らすのは、

 

「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。

IIコリント4:6

 

です。これが実に大切なポイントなのです。イェスの光は、無関心な人やキリストに敵対する人をも照らすのではなく、それを受け入れて携える人の心を媒介して広がるのです。同様に、「平和の君」なるキリストの平和も、強制定期全世界に敷かれるものではありません。イェスが生まれた時に羊飼いたちに現れたみつかいたちの歌はこうです。

 

「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。

ルカ2:14

 

そうです、イェスの光や平和は、それを土の器に携えて運ぶ一人一人を通してしかこの世の中に広がりません。そうすると、私たちの責任は絶大です。まるで湘南海岸で日光浴をする様にみんなで安穏(あんのん)とイェスの光を浴びるのではなく、私たちは今のコロナワクチンの様に貴重なイェスの光を、一人一人が手作業で、日々の生活を通して、運ぶべきものなのです。誰かがそれを運ばなければ、それは決して世界に届きません。

 

この光に接した人たちが御国においてどうなるかも、黙示録とイェスの例え話とからわかります。

 

都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。

黙示録22:2〜5

 

諸国民は都の光の中を歩き、地の王たちは、自分たちの光栄をそこに携えて来る。

黙示録21:24

 

この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。

マタイ25:30

 

この様に、御国の中においても、日夜、神と子羊の光に照らされて生きる者、周いでその光を浴びて生活することを許され、その代表者が都に貢物を携えゆく者、そしてその光を浴びることすら許されないものもいるのです。

 

クリスマスの時期に私たちが祝う光と平和とは、全世界の誰であっても受け取れるものではありますが、それを携えゆく者が必要です。

 

すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。

ローマ10:9〜15

 

私たちがクリスマスプレゼントについて考えるこの時期、私たちがこの世界に対して与えることができる最大のプレゼント、つまりキリストの光、についても考えるべきではないでしょうか。

 

あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。

マタイ5:14〜15

 

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