八王子バプテスト教会通信

5月9日のメッセージ 2021年5月9日

「イェスの復活・その後:(5)アポロ」

 

さて、アレキサンデリヤ生れで、聖書に精通し、しかも、雄弁なアポロというユダヤ人が、エペソにきた。この人は主の道に通じており、また、霊に燃えてイエスのことを詳しく語ったり教えたりしていたが、ただヨハネのバプテスマしか知っていなかった。彼は会堂で大胆に語り始めた。それをプリスキラとアクラとが聞いて、彼を招きいれ、さらに詳しく神の道を解き聞かせた。それから、アポロがアカヤに渡りたいと思っていたので、兄弟たちは彼を励まし、先方の弟子たちに、彼をよく迎えるようにと、手紙を書き送った。彼は到着して、すでにめぐみによって信者になっていた人たちに、大いに力になった。彼はイエスがキリストであることを、聖書に基いて示し、公然と、ユダヤ人たちを激しい語調で論破したからである。

使徒行伝18:24〜28

 

イェスが天に戻られた後の世の中での出来事です。この話でこのシリーズも終わります。

 

アポロという人物が旋風のように登場します。彼はまず、旧約聖書を熟知しており、それがどのようにイェスがメシアであるのかを示しているかということも、よくわかっていました。さらに、彼は雄弁で、熱意と行動力の塊でした。しかし、彼の説教を聞いた、パウロと一緒にエペソに来たプリスキラとアクラは見かねて、彼を自宅に招き、彼に不足していた情報を伝えます。この情報を持ったアポロは、完全に整えられた働き人として、新約の教会にとって大きな即戦力になります。

 

彼にどのような情報が不足していたのかは、バプテストだけではなく、プロテスタントもカトリックも共通した認識を持っています。それは、イェスのバプテスマの権威に関する知識です。彼がどのようなルートでバプテスマのヨハネとイェスに関する知識を得たのかは、全く不明ですが、彼は「知ってか知らずか」、自分が取るべき行動を知る機会を得ることなく、暴走してしまったのです。

 

そもそも、イェスに近い弟子であれば、イェスの最後の方の指示は知っていたはずです。

 

見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい。

ルカ24:49

 

エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。

使徒行伝1:4

 

この情報が周知されたということは、ユダヤ人たちによる「残党狩り」をも恐れずに、五旬節の日に集まって祈っていた人数からもわかります。しかし、その中にアポロはいませんでした。初めからエルサレムにいなかった可能性が何よりも高いのです。だから、「知ってか知らずか」、なのです。

 

一方、不足していた情報が与えられただけで完全に整えられた説教者となったということは、アポロには悪意も自己中心的な精神もなかったということでもあります。しかし、「知ってか知らずか」の結果が、大変な状況をもたらしてしまいます。

 

アポロがコリントにいた時、パウロは奥地をとおってエペソにきた。そして、ある弟子たちに出会って、彼らに「あなたがたは、信仰にはいった時に、聖霊を受けたのか」と尋ねたところ、「いいえ、聖霊なるものがあることさえ、聞いたことがありません」と答えた。「では、だれの名によってバプテスマを受けたのか」と彼がきくと、彼らは「ヨハネの名によるバプテスマを受けました」と答えた。そこで、パウロが言った、「ヨハネは悔改めのバプテスマを授けたが、それによって、自分のあとに来るかた、すなわち、イエスを信じるように、人々に勧めたのである」。人々はこれを聞いて、主イエスの名によるバプテスマを受けた。そして、パウロが彼らの上に手をおくと、聖霊が彼らにくだり、それから彼らは異言を語ったり、預言をしたりし出した。

使徒行伝19:1〜6

 

これがアポロの暴走の結果であろうということも一般的な見解です。おそらく彼は自分が蓄積していた旧約聖書の知識とイェスに関する知識があまりにもぴったり合うため、感動のあまりいてもたってもいられなくなり、説教と、権限を伴わないバプテスマとを繰り返していたのでしょう。しかしその結果、何もわからない信徒たちはバプテスマを受け直すということになってしまいました。この箇所が、ランドマーク・バプテストや宣教バプテストの、バプテスマの受け直しの根拠でもあります。

 

しかし、信仰がきちんとしているのに、バプテスマを施した人の権限が根拠でバプテスマを受け直すのはおかしいのではないか?という声も聞かれます。このこと自体、イェスの教会の権限がよく理解されていないことの現れでもあります。この原理を説明するために、キリスト教とは全く関係のないところで日本で起こったある事例を取り上げたいと思います。

 

私は若い頃、琉球空手をやっていました。あまり真面目に稽古せず、結局はあまり強くなりませんでしたが、先輩たちの中には段を重ね、5段に達して師範を獲得し、自分の道場を持つようになる方もいました。しかし、その中で、ある先輩はとんでもない行動に出てしまいました。それは、師範を獲得していないのに、勝手に自分の道場を立ち上げてしまい、その中から有段者を出していきます。しかし、その段は権限を持たないため、沖縄の本部はそれを認めることができませんでした。結局、その「道場」で段をとった者が全員、沖縄本部の方の立ち合いのもと、もう一度段をとるための検定を受け直すことになってしまいました。それは、空手が上手であるかどうかとは関係なく、真面目であるかどうかとは関係なく、権威が伴っていたかどうかのことでした。アポロがやってしまったことは、こういうことだったのです。

 

さて、ここでひとつのポイントです。普段からのメッセージでは、積極的に動くことを教えているのに、今日は逆ではないか?と思われる方もいらっしゃるかもしれません。確かに、ソロモンも、雲や風を気にせず、右にも左にも種を撒け、と教えています。私たちほとんどの信者は、このような形で背中を押されないと、必要な行動がなかなか取れません。

 

しかし、世の中には、一部、行動の塊のような人もいます。考えるくらいなら、まず動をとる、行動をしていないとおかしくなってしまいそうだ、という人です。私は決してそのような人ではありませんし、皆様も同様かもしれません。しかし、そのような人は確実に存在し、そしてアポロのように主に用いられるのです。

 

そうすると、今回のアポロが私たちにとって反面教師になるのでなければ、私たちはこの流れから何を学ぶべきでしょうか?それは、プリスキラとアクラの行動です。悪気なく暴走していたアポロを自宅に招き入れ、相当量の知識を持っていた彼にさらに必要な情報を与えたのです。それがどのような結果につながるか彼らはわかりませんでしたし、放っておけばアポロ一人が悪者になって自分たちは何の責めを受けなかったでしょう。しかし、それではイェスの教会は大きな損失を被ってしまいます。

 

教会の中には、自分と異質な人もたくさんいます。当然です。イェスのからだだからです。

 

わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。なぜなら、一つのからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように、わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。

ローマ12:3〜5

 

私たちの中には、より積極的に行動しなければならない者も、積極的な行動を控えるべき者もいるかもしれません。しかし何より、お互いに教え、お互いに学び、イェスの体を成長させるという気持ちをお互いに持つ必要があります。

 

使徒行伝は、奇跡やしるしが多く残されている書物であることから、今日の私たちとはあまり関係がないという読み方もできてしまいます。しかし、それは間違いです。使徒行伝は、イェスが地上にご自分の体を教会という形で残し、天に戻られた後、様々な弱さを持った信徒たちがどのようにしてイェスのそのお体をあるべき姿に育てていったかの記録に他なりません。それは、今日の私たちにとっても同じことです。私たちには、そのお体を、正しい権威のもと次の世代へと受け渡す責任があるのです。

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