八王子バプテスト教会通信

1月31日のメッセージ 2021年1月31日

しばらく「証しを立てる」ことについて考えていきますが、私たちクリスチャンは良い証しを立てるだけではなく、悪い証しになることもありうることに、気をつけねばなりません。また、私たちが偉人を見て「あの人のようになりたい」と思っても、どうすればいいのか途方に暮れてしまいます。しかし、失敗をした人を見たら、「ああならないようにしよう」と気をつけることができます。私たちにとっては、日本のことわざで言えば、「見賢思斉」(けんけんしせい、賢人を見てそのようになろうとすること)よりは、「人のふり見て我がふり直せ」が現実的でしょう。

 

そこでしばらく、旧約聖書の「士師記」を見ていきたいと思います。この書は、イスラエルがエジプトから出て40年後にカナンの地に入ってから王政が始まるまでの時期の歴史を描いていますが、実に反面教師だらけです。そうでない人もいますし、中にはヘブル11章の信仰の先輩に名を連ねている人もいますが、大半は非常に残念な展開ばかりです。今の言葉で言えば、「しくじり先生の書」とでもいうべきものです。冗談と思うでしょう?しかし、あの「しくじり先生」というテレビ番組のサブタイトルは何でしょうか?「俺みたいになるな!!」でしょう?そして、まさに聖書にこのように書いてあります。

 

「これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。」

(Iコリント10:11〜12)

 

まさに、私たちが反面教師から学ぶためのものなのです!決して過去の方々の失敗を笑うためではなく、私たちも反面教師と同じようになるまいと気をつけて、具体的な生き方につなげなければ、結果的に同じになってしまうからなのです。

 

士師記は、悲劇に続く悲劇の連続です。イスラエルの人々は神に従うと誓いながらも、言っているそばから神の言葉に背き、裁かれます。助けを主に求めて救われても、また同じことを繰り返します。また、主要人物として登場する人も、身勝手な言動で自他に災いを招きます。なぜこのようなことになってしまったのでしょうか?ヒントが第2章にあります。

 

主の使がギルガルからボキムに上って言った、「わたしはあなたがたをエジプトから上らせて、あなたがたの先祖に誓った地に連れてきて、言った、『わたしはあなたと結んだ契約を決して破ることはない。あなたがたはこの国の住民と契約を結んではならない。彼らの祭壇をこぼたなければならない』と。しかし、あなたがたはわたしの命令に従わなかった。あなたがたは、なんということをしたのか。それでわたしは言う、『わたしはあなたがたの前から彼らを追い払わないであろう。彼らはかえってあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたのわなとなるであろう』と」。主の使がこれらの言葉をイスラエルのすべての人々に告げたので、民は声をあげて泣いた。

・・・

その後ほかの時代が起ったが、これは主を知らず、また主がイスラエルのために行われたわざをも知らなかった。イスラエルの人々は主の前に悪を行い、もろもろのバアルに仕え、かつてエジプトの地から彼らを導き出された先祖たちの神、主を捨てて、ほかの神々すなわち周囲にある国民の神々に従い、それにひざまずいて、主の怒りをひき起した。

(士師記2:1〜12)

 

何ということでしょう!彼らは、これほどの経験をしておきながら、彼らはモーセの律法の最も根本的な教えすら全く守っていなかったのです!それは、

 

「努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。」

(申命記6:9)

 

子供たちにいくらかでも律法を厳守するようにしつけていれば、このようなことにはなり得ないでしょう。つまり、彼らが主に従うと誓ったのは、心底そのように感じていた瞬間があったにしても、掛け声で終わってしまったのです。「どのようにすれば、確実に主に従えるだろうか?」と自問することなく、別の価値観で動く日常生活に戻ってしまったのです。そして、その価値観こそが、士師記のテーマを読み解くために重要なのです。

 

カナンの地に入る前、神は予めモーセを通して彼らに次のように警告していました。

 

そこでは、われわれがきょうここでしているように、めいめいで正しいと思うようにふるまってはならない。

(申命記12:8)

 

これに対して、彼らはどうしたでしょうか?士師記の最後の章の最後の節で、士師記の時代がこのように総括されています。

 

「そのころ、イスラエルには王がなかったので、おのおの自分の目に正しいと見るところをおこなった。」

(士師記21:25)

 

しかも彼らは「悪いとはわかっているがやってしまえ」という生き方ではなく、自らが正しいと確信した行動をしていたのです!これこそが、その悲劇の根源なのです。人々が正しいと思うように動くとなぜ悲劇が起こりうるのでしょうか?今の世界情勢を考えてみてください。何が正しいかの考え方そのものが方々で衝突し、争いや敵対心を生み出しています。そして、近代の民主主義国家の中においても、言動を強制する絶対君主がいない以上、何が正しいかを個人が判断しなければならず、問題が必ず多発します。

 

人が見て自ら正しいとする道でも、その終りはついに死に至る道となるものがある。

(箴言14:12)

 

来週から具体的な人物を見て行きますが、それまで一週間自問しましょう。日々の自分の行動は、主のみ言葉に基づくものなのか、私個人の価値観に基づくものなのか?おそらく、多少混乱します。そして、考えます。ここまで分からないのなら、いっそのこと修道院にでも入ったほうが楽なのではないか?

 

確かに、その通りです。修道院では、生活は貧しく、厳しくても、何が正しくてどのようにすればいいのか悩む必要がなく、日々を淡々と過ごせば良いからです。しかし、それが私たちクリスチャンに与えられた生き方ではありません。

 

「わたしは前の手紙で、不品行な者たちと交際してはいけないと書いたが、それは、この世の不品行な者、貪欲な者、略奪をする者、偶像礼拝をする者などと全然交際してはいけないと、言ったのではない。もしそうだとしたら、あなたがたはこの世から出て行かねばならないことになる。」

(Iコリント5:9〜10)

 

「だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。」

(Iコリント10:31)

 

やはり、難しいところではあっても、私たちの持ち場、私たちが証しを立てるべき場所は、今、置かれているところなのです。

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