八王子バプテスト教会通信

2020年3月1日 聖日礼拝メッセージ 2020年3月1日

イェスの譬え話(17)「隠された宝」(マタイ13:44)
「天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、言って持ち物を売り払い、そして畑を買うのである。」

毎週くどいようですが、ここでの「天国」は誤訳で、「天の王国」とするべきです。「天国」と「天の王国」は全く別物です。「天国」今神が住んでおられる場所、「天の王国」は再臨したキリストが地上に設立される、神と人とが共に住まう世界の政権です。天国は誰でもキリストを信じ受け入れれば入れますが、天の王国に入るのはそう容易いことではありません。

この「隠された宝」の譬え話は、「効果な真珠」とセットになっている譬え話です。この中で、ある人が畑の中で隠された宝を見つけます。この人がその宝を得るために全財産を売り払ってその宝を手に入れるのですが、このことはその宝を見つけた人がその畑の持ち主でないことを当然示しています。畑の持ち主でないのに畑に立ち入る人は誰?当然、畑仕事のために雇われた小作人でしょう。

畑の持ち主は、おそらくいくつもの畑を持ち、自分では滅多に畑に足を運びません。出来高や売上高についての報告を受けるだけです。一方、雇われて畑仕事をしている小作人は、その畑を隅々まで知り尽くしています。

この宝は、畑の前の持ち主が隠しておいたもので、そのまま亡くなってしまった、その畑を後に買い取った今の持ち主はその宝の存在に気付いていない、と考えるのが最も自然な流れです。この小作人がその宝をこっそり持ち出せば、それは盗みの罪になります。盗みの罪の罰は、盗まれたものの倍の額の補償であって、小作人には到底払うことができず、労役をもって償うしかありません。正々堂々と自分のものにするためには、畑を買い取るしかありません。

小作人が畑を買い取るというのは、簡単なことではありません。現代で言えば、サラリーマンがマイホームを買うとき、銀行のローンを使わず、財産を全て処分して現金で買うようなものです。とてつもない決心です。しかし、「喜びのあまり」それを実行するのは、その宝の価値を実感したからです。

畑の持ち主は、色々と考慮しなければならない事柄があります。いろいろなことに心を奪われています。その畑は、いろいろと有る関心ごとのひとつに過ぎません。今日のクリスチャンも、そのような人が多いのではないでしょうか?天の王国の概念は漠然と持っていて、大事かと聞かれた当然大事と答えますが、そこまで大事なものであるような生き方をしているでしょうか?それとも、畑の持ち主の表に色々と大事なものの中のひとつに過ぎないような生き方をしているでしょうか?

天の王国を大事にするということは、別に無一文になって世捨て人になれということではありません。ただ、自分に当てられた場所、勉強や仕事において、神の国の子らしく歩いているのか、ということです。場合によっては、クリスチャンとして歩むと世間から外れていると見られることもあります。今の日本社会では、昔のように迫害されて殺されることはないでしょうが、多少の不利益を被ることもあることもあるかもしれません。それゆえ神の国の子としての歩みを変えて世間と合わせるのであれば、その人はその宝を本当に見出したとはとても言えません。

私たちが処分すべき財産とは金銭的なものではなく、この世のしがらみであったり、立場だったり、人にどのように見られるか、そのようなものであることが多いでしょう。私たちは、天の王国を、何を差し置いても最も大切なものなのか、たくさんある関心ごとのひとつなのか、もう一度自問すべきでしょう。

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