み言葉を託された者:ミカ(4)
末の日になって、主の家の山はもろもろの山のかしらとして堅く立てられ、もろもろの峰よりも高くあげられ、もろもろの民はこれに流れくる。多くの国民は来て言う、「さあ、われわれは主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。彼はその道をわれわれに教え、われわれはその道に歩もう」と。律法はシオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである。彼は多くの民の間をさばき、遠い所まで強い国々のために仲裁される。そこで彼らはつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかってつるぎをあげず、再び戦いのことを学ばない。彼らは皆そのぶどうの木の下に座し、そのいちじくの木の下にいる。彼らを恐れさせる者はない。これは万軍の主がその口で語られたことである。すべての民はおのおのその神の名によって歩む。しかしわれわれはわれわれの神、主の名によって、とこしえに歩む。主は言われる、その日には、わたしはかの足のなえた者を集め、またかの追いやられた者およびわたしが苦しめた者を集め、その足のなえた者を残れる民とし、遠く追いやられた者を強い国民とする。主はシオンの山で、今よりとこしえに彼らを治められる。羊の群れのやぐら、シオンの娘の山よ、以前の主権はあなたに帰ってくる。すなわちエルサレムの娘の国はあなたに帰ってくる。
ミカ書4:1〜8
前回までのミカ書は、社会的公正をエルサレムに求める内容が多かったのですが、今週はミカ書のもうひとつのテーマ、「メシアによるリセット」です。今日の聖書の箇所を見ると、全世界がエルサレムによって支配され、そのために祝福され、導かれています。今の私たちの理解からすると、これは現存の中東のエルサレムではなく、この地上に築かれる神の王国における「新しいエルサレム」です。
そもそも、主がイスラエルをご自分のためとして選び、立てられたのが、この目的を実行するためでした。しかし、イスラエルはこの目的に用いられるに必要な道に歩むことを好まない一方、それが自分たちに約束されているから無条件でもらえるものと思って歩んでいました。その結果、それがイスラエルから取り上げられてしまったのです。
それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう。
マタイ21:43
ここでおさらいですが、「神の国(天の王国、神の王国)」は、「天国」とは全く別物です。日本語の聖書の翻訳の中ではそれが曖昧になってしまっているところもありますが。まず、天国というのは、神の住まい、神の聖所があるところで、救われている私たちが今日死んだなら、そこにあるパラダイスに行くことになります。救われている人で、天国にいけない人はいません。これは神の約束だからです。
一方、神の国は、まだ実現していません。それは、メシアの来臨の時に興るものですが、全ての救われた人がここに入れるわけではありません。イェスの譬え話の中に、「王国譬え話」というジャンルがあります。ルカ伝に特に多く見られますが、これは私たちがどのようにすればその王国に関わることができるようになるかを教えているものです。
しかし、なぜ主は全ての救われた人を王国の支配に加えないのでしょうか?理由は簡単です。ある人が国王であるとか、会社の社長であるとか、人が何か大きな事業に携わっている場合、自分の子供をそれに携わらせたいと思ったなら、どうするでしょうか?それなりのトレーニングや訓練や人格指導を行い、そして大丈夫だと思ったら、初めてそこで携わらせるでしょう。訓練ができていない子や、人格に課題がある子をそこに入れた場合は、その国やその事業に大きな支障が出る可能性があるからです。
南アフリカでかつて敷かれていた「アパルトヘイト」、つまり人種隔離政策が、1994年に撤廃されました。それまで国内の多くの事業が白人によって経営されてきましたが、そのうちの多くの農場、ブランテーション、工場などが没収され、経営の経験がほとんどない現地人に任されました。結果はお察しの通りです。それらの事業の多くは数ヶ月以内に倒産し、国内に大きな混乱をもたらしました。事業を継続させるというのは大変な能力、経験、そしてセンスが必要なのです。1865に奴隷制度が撤廃されたアメリカでも、節足な体制変更で国内に大きな混乱が起き、結果的に却って多くの黒人たちを不利益に陥れることになってしまいました。
主は、ご自分の新しい王国においてこのような事態が起こることを望まれません。ふさわしくない人材を起用したくありません。あまりにも長い間、このご計画を進めてこられたのですから、それにふさわしい人材を当てたいのです。では、御国にふさわしい人材とは、どのような人でしょうか?
今の社会を考えた時、何かの会社、事業、国の事業に関わりたいと思った候補に求められることは何でしょうか?その立場を得るためにどのような姿勢を示せば良いのでしょうか?まずは、積極的な姿勢、アグレッシブでハングリーに取り組む姿勢を示すことでしょう。しかし、主が示されている基準は、少し違います。
柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
マタイ5:5
「王国譬え話」の中で登場人物に求められている行動、考え方、そして資質が、実はやがて来る神の王国の人材になるためのトレーニング事項であることが見えてきます。仲間を許さなかった僕、油の用意が不十分だったおとめ、任された資金を運用しなかった僕などは、このトレーニングに失敗したか参加を拒否した人々です。重ねて言いますが、この人たちも天国に入ることはできますが、王国に入ることができないばかりか、その都の光のうちに歩むことも許されず、都の光が届かないところで生活しなければならないのです。当然、悔やんでも悔やみきれません。
今日のミカ書の中には、全世界の人々がエルサレムゆえに祝福され、平和に暮らしている様子が描かれています。今の世界の中では、どうすれば平和が到来するのか、誰もわかりません。わかれば、ぜひ教えて欲しいと、世界中の人々が思っています。ボブ・デュランの反戦運動の名曲「風に吹かれて」は、平和というものがいかに風のように捉えどころがないものであるかを書いたものである、と本人が後になって語っています。本当に平和が来るのであればぜひ教えて欲しいというこの世界中の人々の気持ちが、やがて反キリストに権力が集中する要因にもなるのです。しかし、反キリストにも、真の平和をもたらす力はありません。それをもたらすことができるのは、「平和の君」、キリストだけです。
私がかつて大変お世話になった、カリフォルニア州サクラメント市の教会のシェフィルド・フォード牧師は、「支配の訓練は楽じゃない」という本を執筆されました。御国を継ぐ者になるための行動をしていると、この世の日常生活で求められる行動と相入れない点が出てくることについて書いたものです。逆に、この世の中でうまく行く行動が、神の国のためには役立たないということも当然あるでしょう。
というわけで、私たちは、キリストが教えられたように歩むならば、その総合的な力で神の国の到来が早まるのでしょうか?いや、そういうわけではありません。
彼らに言われた、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。
使徒行伝1:7
ただ、私たちは、この地上にいる数十年程度の間、主が教えられた生き方で生き、この世を離れる時には、御国のスタッフの候補としてパラダイスで安んじることでしょう。そして、主の再臨の時には、一緒に御国で良い仕事をしましょう!