み言葉を託された者:イザヤ(6)
ユダの王、ウジヤの子ヨタム、その子アハズの時、スリヤの王レヂンとレマリヤの子であるイスラエルの王ペカとが上ってきて、エルサレムを攻めたが勝つことができなかった。時に「スリヤがエフライムと同盟している」とダビデの家に告げる者があったので、王の心と民の心とは風に動かされる林の木のように動揺した。その時、主はイザヤに言われた、「今、あなたとあなたの子シャル・ヤシュブと共に出て行って、布さらしの野へ行く大路に沿う上の池の水道の端でアハズに会い、彼に言いなさい、『気をつけて、静かにし、恐れてはならない。レヂンとスリヤおよびレマリヤの子が激しく怒っても、これら二つの燃え残りのくすぶっている切り株のゆえに心を弱くしてはならない。スリヤはエフライムおよびレマリヤの子と共にあなたにむかって悪い事を企てて言う、「われわれはユダに攻め上って、これを脅かし、われわれのためにこれを破り取り、タビエルの子をそこの王にしよう」と。主なる神はこう言われる、この事は決して行われない、また起ることはない。スリヤのかしらはダマスコ、ダマスコのかしらはレヂンである。(六十五年のうちにエフライムは敗れて、国をなさないようになる。)エフライムのかしらはサマリヤ、サマリヤのかしらはレマリヤの子である。もしあなたがたが信じないならば、立つことはできない』」。主は再びアハズに告げて言われた、「あなたの神、主に一つのしるしを求めよ、陰府のように深い所に、あるいは天のように高い所に求めよ」。しかしアハズは言った、「わたしはそれを求めて、主を試みることをいたしません」。そこでイザヤは言った、「ダビデの家よ、聞け。あなたがたは人を煩わすことを小さい事とし、またわが神をも煩わそうとするのか。それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。その子が悪を捨て、善を選ぶことを知るころになって、凝乳と、蜂蜜とを食べる。それはこの子が悪を捨て、善を選ぶことを知る前に、あなたが恐れているふたりの王の地は捨てられるからである。主はエフライムがユダから分れた時からこのかた、臨んだことのないような日をあなたと、あなたの民と、あなたの父の家とに臨ませられる。それはアッスリヤの王である」。その日、主はエジプトの川々の源にいる、はえを招き、アッスリヤの地にいる蜂を呼ばれる。彼らはみな来て、険しい谷、岩の裂け目、すべてのいばら、すべての牧場の上にとどまる。その日、主は大川の向こうから雇ったかみそり、すなわちアッスリヤの王をもって、頭と足の毛とをそり、また、ひげをも除き去られる。その日、人は若い雌牛一頭と羊二頭を飼い、それから出る乳が多いので、凝乳を食べることができ、すべて国のうちに残された者は凝乳と、蜂蜜とを食べることができる。その日、銀一千シケルの価ある千株のぶどうの木のあった所も、ことごとくいばらと、おどろの生える所となり、いばらと、おどろとが地にはびこるために、人々は弓と矢をもってそこへ行く。くわをもって掘り耕したすべての山々にも、あなたは、いばらと、おどろとを恐れて、そこへ行くことができない。その地はただ牛を放ち、羊の踏むところとなる。
イザヤ7章
先週は、若干二十歳で献身をしたイザヤですが、今週は早速お仕事です。イザヤが献身したのが、「アハズ王暴走元年」ということを先週学びましたが、今日の話がその当日とか翌日とかに起きたことかというと、そういうわけではありません。ここではイザヤに同伴する息子がいます。そこそこの時間が経っています。
暴君アハズに対して予言するように命じられたイザヤですが、これはなかなか気軽にできるものではなかったようです。それが読み取れる点が二つあります。ひとつは、イザヤがアハズに屋外で出会うように命じられた主の言葉にあります。これはイザヤが通常の預言者のように王座の前で予言を述べることができていなかったどころか、王家のインサイダーでありながら、王宮には近づくこともできていなかったことを表しています。よほどアハズは、自分の考えと違う人を受け入れない性質だったのでしょう。
そしてもうひとつは、これが今日の話に大きく関係するのですが、イザヤの息子の名前です。この子の名前はシャル・ヤシュブ、これは「レムナント(生き残り)は帰還する」という意味です。この時点ではまだイスラエルのバビロン捕囚は愚か、北もまだ健在ですが、レムナントについての言及です。つまり、捕囚はすでに決まっている、と宣言しているようなものです。
実は当時、大っぴらに政権を批判できない人々も、その批判内容を子の名前に託すことがなされていました。その批判をこの名前に託した結果、親子共に殺されたとかそのような記録がないことから、イザヤは暴君アハズのもとではひっそりと生き延びようとしていたことがわかります。しかし、今日の話では、公の場で堂々と主の言葉を語らなければなりません。
その内容はといえば、先週の内容を思い起こしてください。世界覇権を狙うアッシリヤに対抗しようと、イスラエルとダマスコ(シリヤ)が軍事同盟を結び、それに非協力的なユダヤに侵攻します。それに対する主の言葉は、「北もダマスコも、燻る切り株のようなもの、すぐになくなってしまうから、恐れるには及ばない」というものでした。
なんだ、よかったじゃないか!
しかし、その内容を見てみましょう。
六十五年のうちにエフライムは敗れて、国をなさないようになる。
「65五年後!じゃあ、今日の俺はどうなるんだ!」
実は、これはアハズのとある性格をついたもので、私たちにとっても大きな教訓になるものです。というのは、アハズは自己保身さえできればあとはどうでもいい、という性格の持ち主でした。実際、多くの暴君はこのような小心者なのです。だから、北の同盟が攻めてきた時には、攻めあぐんでいるとはいえ、とてつもなく同様し、アッシリアに助けを求めるという、国家としての自殺行為に走ってしまうのです。
それに対して示されたのが永い時を経てなされる主のご計画です。主のご計画は常に、今日明日の我が身の保身が中心ではなく、神と人とが共に住まう世界の創出です。私たちが主の助けを得るということはこのご計画に身を任せることでもあります。
当然、アハズは主に信頼しませんでした。このことは、今日の聖書の下からもわかります。
主は再びアハズに告げて言われた、「あなたの神、主に一つのしるしを求めよ、陰府のように深い所に、あるいは天のように高い所に求めよ」。しかしアハズは言った、「わたしはそれを求めて、主を試みることをいたしません」。
主はアハズに、どんなしるしでも求めなさい、と言いますが、アハズはそれを断ります。イザヤはその対応を弾糾しますが、アハズはなぜそのチャンスを断ったのでしょうか?ひとつには、イザヤはそれがアハズの偽善であることを指摘しています。もうひとつ考えられるのは、アハズが公の場でしるしを求め、それが実現しなかった場合には、自分のリーダーとしての求心力が弱まってしまうことに対する恐れもあったのでしょう。いずれにしても、アハズは主のご計画よりも目下の保身を選択してしまいます。
そのころ、スリヤの王レヂンおよびレマリヤの子であるイスラエルの王ペカがエルサレムに攻め上って、アハズを囲んだが、勝つことができなかった。その時エドムの王はエラテを回復してエドムの所領とし、ユダの人々をエラテから追い出した。そしてエドムびとがエラテにきて、そこに住み、今日に至っている。そこでアハズは使者をアッスリヤの王テグラテピレセルにつかわして言わせた、「わたしはあなたのしもべ、あなたの子です。スリヤの王とイスラエルの王がわたしを攻め囲んでいます。どうぞ上ってきて、彼らの手からわたしを救い出してください」。そしてアハズは主の宮と王の家の倉にある金と銀をとり、これを贈り物としてアッスリヤの王におくったので、アッスリヤの王は彼の願いを聞きいれた。すなわちアッスリヤの王はダマスコに攻め上って、これを取り、その民をキルに捕え移し、またレヂンを殺した。アハズ王はアッスリヤの王テグラテピレセルに会おうとダマスコへ行ったが、ダマスコにある祭壇を見たので、アハズ王はその祭壇の作りにしたがって、その詳しい図面と、ひな型とを作って、祭司ウリヤに送った。そこで祭司ウリヤはアハズ王がダマスコから送ったものにしたがって祭壇を建てた。すなわち祭司ウリヤはアハズ王がダマスコから帰るまでにそのとおりに作った。王はダマスコから帰ってきて、その祭壇を見、祭壇に近づいてその上に登り、燔祭と素祭を焼き、灌祭を注ぎ、酬恩祭の血を祭壇にそそぎかけた。彼はまた主の前にあった青銅の祭壇を宮の前から移した。すなわちそれを新しい祭壇と主の宮の間から移して、新しい祭壇の北の方にすえた。そしてアハズ王は祭司ウリヤに命じて言った、「朝の燔祭と夕の素祭および王の燔祭とその素祭、ならびに国中の民の燔祭とその素祭および灌祭は、この大きな祭壇の上で焼きなさい。また燔祭の血と犠牲の血はすべてこれにそそぎかけなさい。あの青銅の祭壇をわたしは伺いを立てるのに用いよう」。祭司ウリヤはアハズ王がすべて命じたとおりにおこなった。またアハズ王は台の鏡板を切り取って、洗盤をその上から移し、また海をその下にある青銅の牛の上からおろして、石の座の上にすえ、また宮のうちに造られていた安息日用のおおいのある道、および王の用いる外の入口をアッスリヤの王のために主の宮から除いた。
II列王紀16:5〜20
主に従うどころか、アッシリアの王に媚びるために、神殿の金品を剥ぎ取り贈り物とした上で、偶像の祭壇を据え、エルサレムの神殿から、アッシリアの王が少しでも気に食わないと思われるものを取り除いてしまいました。とてつもない暴挙ですが、私たちも、人に嫌われないように、主の僕であることを隠したりしていないでしょうか?今日の我が身の保身のために、本来とるべきでない行動を取って周囲と合わせたりしていないでしょうか?
アハズとんでもない悪王として記録されていますが、実は私たちが自らを見つめ直すための重要な反面教師でもあるのです。
兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。
ローマ12:1〜2