み言葉を託された者:イザヤ(4)
アモツの子イザヤがユダとエルサレムについて示された言葉。終りの日に次のことが起る。主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れてき、多くの民は来て言う、「さあ、われわれは主の山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに教えられる、われわれはその道に歩もう」と。律法はシオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである。彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。ヤコブの家よ、さあ、われわれは主の光に歩もう。
イザヤ2:1〜5
クリスマスと新年を経て、久しぶりにイザヤに戻ります。
イザヤのひとつの特徴は、厳しい裁きの言葉と、イスラエルを通して全人類が祝福されるという壮大なご計画の言葉との間を行き来することです。主はイスラエルが総体として祝福されることを切に望んでおられるのです。
以前、今日のアメリカのメガチャーチの誤ったメッセージが次のようなものであると述べたことがあります。
God wants you to be rich and successful.
「神は、あなたが裕福で成功した者になる事を望んでいる」
実は、これは言葉の端だけを取れれば、あながち間違ってはいないのです。そもそも、この不幸せを願う親はおらず、当然この幸せを願うのが親でしょう。
ならば、神は人が幸せになるようなものを与えるだけ与えれば良いのではないのでしょうか?これ以上になく幸せになるように欲しいものを与え続ければ良いのではないでしょうか?
その答えは、人間の親であっても、子の幸せを願う親ほど、子の望ものばかりを与え続けない、ということからもわかります。なぜなら、肉の人間の親であっても、幸せは物質的なものや好環境から生まれないことを知っているのです。そのため、さまざまな逆境の中においても幸せを実感できるような教育をするのです。
天の父の前にいる私たちも同じような立場にいます。少し違うのは、親の前にいる子は「未熟だからこのまま大人にならないようにしないといけない」存在である(つまり、しつけと訓練を通して成熟した存在に変えられなければならない)のに対して、主の前にいる私たちは、未熟は当然のこと、「不完全で罪あるから、罰を受けずに幸せに入れるように清めなければならない」存在なのです。私たちが子供の頃に親に厳しく育てられたことが決して楽しくはなかったように、主の清めの指導は決して楽しくありません。そして、その当時は親の厳しさの理由さえ理解できずに、自分は憎まれているのか、とさえ思ってしまったりもしたと同じように、主の指導も同じように思われてしまうのです。
また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。その上、肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、なおさら、わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか。肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。
ヘブル12:5〜11
イザヤの言葉を聞いた人々は、まるで主が二重人格者であるかのように思われたことでしょう。幸せになって欲しいのであれば、さっさと富と平安を与えれば良いではないか、と思われたでしょう。しかし、肉の親であってもそのような子育てがどれだけ子をダメにして不幸せにしてしまうかがわかるはずです。
しかも、それはこの地上での一時的な、せいぜい数十年しか続かない幸せです。天の父は、私たちの本質的な幸せ、代々続き、永遠に至る幸せを願っておられるのです。
私たちが日常の生活の中で幸せに感じることはなんでしょうか?例えば:
・太陽の光が心地よい
・めんつゆの香り
・布団のぬくもり
・クラッカーとチーズのハーモニーが絶妙
・冗談を言って仲間と笑えた
このようなものは、すべて、主からのプレゼントです。
あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。
ヤコブ1:17
私たちの天の父は、私たちが想像する以上に、私たちの幸せに対して真剣なのです。来週も引き続きこのテーマについて見ていきたいと思います。