み言葉を託された者:ホセア(3)
主はわたしに言われた、「あなたは再び行って、イスラエルの人々が他の神々に転じて、干ぶどうの菓子を愛するにもかかわらず、主がこれを愛せられるように、姦夫に愛せられる女、姦淫を行う女を愛せよ」と。そこでわたしは銀十五シケルと大麦一ホメル半とをもって彼女を買い取った。わたしは彼女に言った、「あなたは長くわたしの所にとどまって、淫行をなさず、また他の人のものとなってはならない。わたしもまた、あなたにそうしよう」と。イスラエルの子らは多くの日の間、王なく、君なく、犠牲なく、柱なく、エポデおよびテラピムもなく過ごす。そしてその後イスラエルの子らは帰って来て、その神、主と、その王ダビデとをたずね求め、終りの日におののいて、主とその恵みに向かって来る。
ホセア3章
ホセア、1章で娼婦と結婚して子を儲けなさいと言われていますが、今度は二号さん、しかも二号さんまで姦淫を行う女性ですか!?とんでもない使命ですね!
いや、この女性、実は1章に出てきた、ゴメルさんに他なりません。ホセアのために三人の子供を生みましたが、その後出て行ってしまって、他の男に囲われています。そこでホセアは行って連れ戻します。その連れ戻し方に特徴があります。「彼女を買い取った」とありますが、正しい訳としては「彼女を買い戻した」です。このことから、この女性がゴメルさんであるというのが分かります。
買い戻す必要があったのでしょうか?そもそも相手が不倫しているのが悪いので、ドラマの様に現場に乗り込んで、修羅場の果てに連れて帰れば良いのではないでしょうか?しかしホセアはそうするどころか、お金を支払います。ここでホセアが支払った金品は、しもべまたは奴隷一人の取引値です。この点が、この話の本質に大きく関わっていますので、ご留意ください。
ホセアはゴメルを連れ戻し、叱責や説教をする様子もなく、「私はずっとあなただけに忠実で居続けるから、あなたも私にそうしなさい」と言って、元の妻の地位に戻します。この様な生半可な対処で良いのでしょうか?ゴメルの行動が許せないという人も少なくないでしょうが、それを許したホセアも許せない、という人もいるでしょう。全て重要なポイントです。
というのも、新約聖書で、イェスが許しについてどの様に教えたのか?これを考えれば、ここで主が何をなさろうとされているのかが見当がつきます。ここまで読んで、ハッと気づいた方もおられるかもしれません。主は今、イスラエルの罪に対して激しい罰を下されようとしています。イスラエルの行いを強く憎んでおられます。しかし、イスラエルそのものは全く憎んでいません。愛してやまないのです。そのため、旧約聖書の各預言書からも読み取れる様に、イスラエルを本格的に憎んで攻撃した他国に容赦ない処罰を加えています。今、イスラエルは不倫中で、主は胸が張り裂ける様な思いです。しかし、主のイスラエルに対する愛は全く変わらず、イスラエルが戻ってくる日を心待ちにしておられるのです。
そもそも、主はイスラエルを通して何をしたかったのでしょうか?それは、本来あるべき、神と人間との関係を具体的に表すことでした。天地創造の直後、神は人と共に歩まれました。人間の罪により、その関係が断たれるまでは。しかしその後も主は人間と親しく歩んだ日々が忘れられず、もう一度、あの様な関係を人と築ける世界の構想を持たれます。しかしそのご計画はすぐに成る物ではなく悠久の時を要します。
旧約から新約に至るまで、一貫したテーマは、神が人と共に住まわれる世界の構築です。それは今の世界をその様に変えてゆくというものではなく、最終的には新しい天と新しい地とが必要になりますが、何よりも必要なのが人間の側の心の準備です。自分が許されて買い戻されていることに対する意識の変革が必要です。
しかしこれが意外に難しく、人間は自分が圧倒的にマイナスな立場からスタートしているのにもかかわらず自らを良くてもプラマイゼロ、あるいはプラスの立場において思考するため、主との間で軋轢が生まれるのです。それをよく表す一例として、イェスの例え話「放蕩息子」の兄の姿があります。
ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞えたので、ひとりの僕を呼んで、『いったい、これは何事なのか』と尋ねた。僕は答えた、『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』。兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』。すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』
マタイ15:25〜32
ここでの兄は、イスラエルを象徴したものですが、主が本当は全人類との和解を望んでいるのに対して、イスラエルが軽蔑する異邦人(自ら以外の人類)との和解を受け入れない姿勢を痛烈に批判しています。確かに兄の言い分にも一理ありますが、罪あるものとしては主の前に「一理」と言ってしまってはあまりにもこちらの立場が悪いことを見過ごしてしまっていることになってしまいます。
さらに、自分の問題を棚に上げた上で道理を通そうとする私たちの姿も、他の例え話で避難しています。自分が無限にも近い負債を許されたのにもかかわらず、仲間の軽微な負債を許さなかったしもべの例え話では、こう述べています。
そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう
マタイ18:32〜35
こう考えてみると、私たち人間には2つの悪い癖があるのです。ひとつは、自分の罪の重さ、つまり自分の立場の悪さを軽く考えてしまうこと。もうひとつは、主が自分も他人もどれだけ愛し許されるかを軽く考えてしまうこと。私たちは、自らの罪のゆえ、本来は存在し続けることもできない存在であるのにもかかわらず、生かされていることにも感謝せず、平気で日々をのうのうと生きているのです。
そして、自分がその様に許されて生かされているのにもかかわらず、自分の価値観と少しでも違う人を許さず、はじいてしまう私たちの姿があります。そのために、私たちが毎回唱える「主の祈り」では、
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、 我らの罪をもゆるしたまえ。
とありますが、これの実践がなかなかできないのでいるのです。そのために、放蕩息子の兄や、ホセアの妻の様な存在が指し示され、これが許せない様では主はあなたも許さない、と教えられているのです。
あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。あわれみは、さばきにうち勝つ。
ヤコブ2:13
さて、ホセアはしもべの代価を支払って妻を買い戻します。これは、奇しくも、ユダがイェスの売り渡しに支払ったのと同じ代価です。「奇しくも」と書きましたが、これが偶然のはずはありません。しかし、これも同様に、人間の価値観と主の価値観の違いを浮き彫りにするものです。ユダが銀貨30枚を支払ったのは自分の都合であり、イェスが支払ったのはご自分の命です。罪なき者が罪ある者のために血を流すという、究極の不条理です。古代から羊や牛の血が生贄で流されてきたのに象徴されるものです。ここまで大きな犠牲を主が支払われたのは、主が私たちをそこまで愛されているからだけではなく、私たちが軽蔑して憎んでいる人々も同様にそこまで愛されているからなのです。
さて、ホセアは妻ゴメルを連れて帰ります。ただ、ゴメルの立場は以前とは少しだけ異なります。それは、代価を支払って買い戻された、つまり「購われた」存在であるということです。そうなると、以前とは違って、「購われた」存在としての振る舞いが求められます。
ある意味、ゴメルは私たちにとって許せない存在ではないばかりか、私たちそのものなのです。私たちも、主の血によって「購われた」存在なのですから。
あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。
Iコリント6:20